寄稿
長寿と子宝の島に 基地はいらん!
〜郷土を守るために〜
あまみ農業協同組合 豊(とよ) 昭仁さん
鹿児島県 徳之島
島民の圧倒的な“声”に反して、鳩山首相は普天間基地ヘリ部隊を徳之島に移転しようとしています。鹿児島県徳之島のあまみ農業協同組合天城事業本部で働く豊昭仁さんから、「長寿と子宝の島に基地はいらん。郷土を守るために」が寄せられました。
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普天間基地の移設候補地に
「朝夕望む空港の 響く爆音高らかに 若き翼に夢のせて…」―徳之島空港に最も近い中学校の校歌には、島から飛び立ち将来の日本を担う若者の希望の象徴として、空港が歌われています。
その徳之島空港が1月末、一躍全国の注目を集めました。現政権の掲げる公約のひとつ、沖縄県にある普天間基地の「国外・県外移設」の候補地として徳之島空港が取りざたされたのです。その理由は(1)沖縄県外であること、(2)ジェット機の離着陸可能な2000メートル級の滑走路があること、(3)上記の条件にあてはまる中で、普天間基地に最も近いこと、などです。
しかし地元住民は、基地依存による経済浮揚や国からの交付金に期待する声があるものの、静穏な生活が壊され、治安が悪化し、基幹産業である農業が衰退し、世界自然遺産の登録をめざす豊かな自然が破壊されるおそれがあるなど、デメリットを懸念する声が圧倒的に多くなっています。4月18日に開かれた「基地移設反対1万人集会」では、予想をはるかに上回る約1万5000人(島民人口の約6割弱)の住民が参加し、私たちあまみ農協労働組合も「NO!」を宣言しました。
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地元のAコープには大きな横断幕が… |
戦中は特攻隊の若者が南の空へ
そもそも奄美群島に属する徳之島は、外部から占領されてきた歴史を持っています。1200年代に琉球王国に支配された奄美群島は、1609年の「薩摩侵攻」で初めて日本(ヤマト)の支配下に入り、1700年代からは薩摩藩が専売制の中で特産のサトウキビをすべて上納させたため、島民は芋のつるやソテツの実などを口にして生活していました。
太平洋戦争時には飛行場が造成され、特攻隊の中継地として多くの若者が二度と帰れない南の空へ消えていきました。これが徳之島空港の前身です。戦後は沖縄とともに日本から切り離され、8年もの間アメリカの占領下となりました。当時の日本復帰運動は、14歳以上の島民のうち99・8%に相当する署名を集め、ハンガーストライキまで決行しました。
奄美の先人たちは、まさに苦汁をなめ自己を犠牲にしながらも、その生命と精神を現在の私たちへと紡(つむ)いできたのです。だからこそ、今を生きる私たちも、この生命と精神とともに豊かな自然と伝統文化をもつ郷土を、将来この島に生きる子孫へ守り伝えていきたいと強く思っています。
農業衰退ならば由々しき事態
基地移設先にサトウキビ生産高が国内有数を誇る徳之島があがるのは、「WTOの受け入れにからむ流れか」「(農産物輸入のために)国内での農業生産を止め、国からの交付金と基地経済に依存せよとの方策なのか」という疑念さえ抱いています。基地移設が農業衰退につながるならば、由々しき事態になりかねません。徳之島空港は命を散らす軍隊の拠点ではなく、島の若人が世界へと羽ばたく原点でありたいと切に願っています。
(新聞「農民」2010.5.17付)
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