対ソ戦に備えて兵力不足を補うため
「五族協和」「王道楽土」の美名の下に
14、15歳の青少年を戦争に動員
「誰も書かなかった義勇軍」著者・(茨城中央農民組合元組合長)
吉野 年雄さん(83)に聞く
終戦から64年がたちました。戦争体験を風化させず、若い世代に語り継ごうという取り組みが広がっています。茨城中央農民組合の元組合長で、2007年に著書「誰も書かなかった義勇軍」を自費出版した吉野年雄さん(小美玉市在住)に、多くの青少年を満州(現中国東北部)に送り込んだ満蒙開拓青少年義勇軍について聞きました。
私が満蒙開拓青少年義勇軍の内原訓練所(茨城県)に入所したのは、1941年3月、15歳のときでした。そこで農事訓練や軍事的な訓練を受け、その年の5月に満州に渡りました。58年に帰国するまでの間、日本軍が満州地域に置いた関東軍への入隊、ソ連軍との交戦、ソ連の収容所での生活、中国での抑留生活などを体験しました。
関東軍と深い関係
義勇軍とは何だったのか。これまでに出された手記や解説書には、義勇軍の制度や生活上のことが詳しく記録されていますが、義勇軍が創設された時代背景にはあまり関心が払われていないことに気づきました。さらに関東軍との関係については、ほとんど触れられていないのです。
「五族協和の王道楽土を築くための鍬(くわ)の戦士」という美名の下につくられた義勇軍とは、対ソ戦に備えて、関東軍の兵力不足を補うために、移民という形をとって、徴兵適齢期前の青少年を国防の第一線に立たせるための制度だったのです。
こうして満州国の植民地経営の先兵的な役割を担わされました。義勇軍は、移民史としてではなく、日本軍国主義の戦争史のなかに位置づけられるべき歴史的事実なのです。
風化、美化させず
義勇軍というのは、風化させても美化させてもいけない問題です。特攻、予科練、少年飛行兵などと同じように、義勇軍制度を創設したのは日本の軍部です。こうして8万6000人もの青少年が海を渡り、2万4000人がいまだに帰国していないのです。
さらに、日本の農民が意識しないまま侵略者そのものにされてしまったという現実もあります。開拓団として、10町歩(10ヘクタール)の地主になれると信じて満州に渡ったが、とんでもないわなだった。これは歴史の大きな教訓として、受け止めなければならない事実だと思います。
義勇軍の真実書く
いま、平和の砦(とりで)である憲法を改悪して、海外で戦争ができる国へと国の形を変えようという動きが強まっています。
偽りの大義を説いて、14、15歳の青少年を戦争に動員した義勇軍の真実を、日本軍国主義の犯罪史として、ぜひ書き留めたいと思って出版したのが本書です。
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「誰も書かなかった義勇軍」(光陽出版社) 1800円 連絡先は光陽出版社。TEL 03(3268)7899
(新聞「農民」2009.8.31付)
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