風雪の道歩んだ20年―(上)―農民連歴代代表3氏大いに語る
今年は、農民連が結成されてから20年。農民連の代表として活躍してきた3氏に、20年間のたたかいを振り返ってもらい、たたかう農民連には希望があることをおおいに語ってもらいました。
小林 農民連が結成されるまでのたたかいのなかで、忘れてはならないできごとは、なんといっても1988年1月9日の集会です。 「農産物の市場開放反対、国民の食糧と健康を守れ」と、東京・清水谷公園に全国から農民はもちろんのこと、労働者、消費者もいっしょに65団体から1300人が集まりました。長く歴史にとどめられるべき決定的な瞬間でした。1987年にアメリカから米の市場開放を求められ、翌年には牛肉・オレンジの自由化が日米間で合意するというなかで、これといったたたかいがなかった。 しかし「農産物12品目が自由化されたらたいへんだ」と、まず北海道で火が付いた。「ここでやらなければ米も自由化される」ということで、全国に呼びかけましたが、あれほど集まるとは思いませんでした。 それから、アメリカの農産物を売り込もうというアメリカン・トレイン(見本市列車)とのたたかいがありました。1988年7月4日、アメリカの独立記念日に、東京・原宿にある「お召し列車」の時だけ使うホームから、アメリカの農産物を積んだ列車が全国へ出発しました。「アメリカン・トレインが止まったところでは一人でもいいから必ず迎え撃って抗議しよう、そうしないと将来に禍根を残すぞ」ということでどこでも立ち上がりました。
戦前の運動と青年が力発揮また、韓国から米が輸入されるというので、横浜の港湾で働く労働者といっしょに海上デモをはじめてやったのは、1984年7月でした。こういうたたかいがなぜできたのか。それは、長い戦前からの農民運動があって、そういう組織が地方にあり、エネルギーがあったからです。また、農村には青年団運動もありました。 佐々木 福島では、今の農民運動の幹部は、ほとんどが青年団運動の出身者です。青年団運動は、農村に大きな影響力を持っていました。やっていたことはやっぱり学習だな。みんな集まってよく学習したよ。 白石 農民連の結成当時は、北海道連の書記長でした。12品目自由化のたたかいは、まず十勝地方の芽室でやりました。正月早々の雪の降るなか、「自由化は許さない」との強い決意が現れた衝撃的な集会になり、一気に全道に広がりました。 当時、全日農もありましたが、このたたかいを全国で束ねるのはどこなのかなかなか見えてこない。1月9日の集会の成功で、農民運動の太い流れがはっきり見えてきたように思いました。そして、多様な運動が繰り広げられて楽しくなり、大きなたたかいの可能性を感じながら農民連の結成を迎えました。 小林 あの当時、アメリカと政府・財界の農業破壊と真にたたかう運動は、我々しかなかった。そういう思いのなかで全国センターが結成されました。今でも思い出しますが、1月26日「大会宣言」を読み終えたとき、一息おいて歓声がわきあがり、拍手が鳴り響き、床を踏み鳴らす足音がその後を追いました。「さあ、これからだ」と身が引き締まりました。
一貫して自由化反対掲げて小林 農民連20年のたたかいは、まさに自由化とのたたかいでした。とくに画期的だったのが、アメリカ・シアトルでのWTO(世界貿易機関)閣僚会議(1999年12月)のときに、ビア・カンペシーナと共同声明を出したことでした。佐々木 方針の正確さには驚きましたよ。 白石 当時、国会前や道庁前で、寒い中、座り込んだものです。テレビカメラが来て、昼のニュースで報道されると、ぜんぜん知らないおじさんが寄ってきて「がんばれ」と激励されたり…。今から振り返ると“よくがんばったなあ”と思います。それがいま、財産になっているんですね。 小林 雨の降る日も女性たちが座り込んだ。「お尻が濡れるよ」って言うと、「いつも濡れ仕事だから平気です」って言うんだよね。たたかうエネルギーっていうのは、こういうことなんだと思ったねえ。 (つづく)
(新聞「農民」2009.1.5・12付)
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[2009年1月]
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