MA米は機会の提供にすぎない
“転作の強化はしない” 閣議了解
“MA米輸入は義務だ” 国会答弁
93年ウルグアイ・ラウンド交渉を担当した
元農水審議官 塩飽(しわく)二郎さんに聞く
ミニマム・アクセス(MA)米に道をひらいたのは、いまから15年前の1993年12月15日。ガット・ウルグアイ・ラウンドの最終合意でした。当時スイス・ジュネーブで、この交渉を担当した塩飽二郎さん(75歳。当時、農水審議官。現在、日本食肉生産技術開発センター理事長)に、話を聞きました。
“米だけは例外に”と 私は努力したが…
MA米の提案はアメリカから…
MA米の提案は、アメリカからあった。それまでアメリカは「なんとか米だけは例外扱いにしてくれ」といくら頼んでも、頑として認めない態度だった。しかも、アメリカとヨーロッパが合意して「これはいよいよだめだ、関税化を受け入れざるをえない」とみんな思っていた。
ところが、93年6月ころ「日本の米はMAで例外扱いにしよう」と言い出した。救いの手を差しのべてきたわけだ。そこで、私とアメリカ農務省の交渉担当官オメイラ氏との間で極秘の会談をやった。そして10月はじめにアメリカの農務長官が来日した時、当時の畑英次郎農相とのあいだで“手打ち”をやったんだ。
その後、この内容を盛り込んだ裁定案が、ウルグアイ・ラウンドの議長から各国に提案されたという経過だ。
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深夜の記者会見で“米自由化”を表明した細川首相
=1993年12月14日、「朝日」夕刊から
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帰国して政府の態度に驚いた
当事者の私に何の相談もなし
12月15日に最終合意して、私は23日に日本に帰ってきた。そこで驚いたことが2つあった。
ひとつは「米のMA導入に伴う転作の強化は行わない」という閣議了解。もうひとつは、MA米を機会の提供さえ与えればいいものを「MA米は国が買うものだから、100%輸入しないと日本が約束を果たしたことにはならない」と国会で答弁したことだ。
まったくバカなことを二つやった。苦心惨憺(さんたん)して交渉を終わって、一週間もしないうちに、しかも交渉当事者の私に相談もなしに、なぜ慌てふためいて決めなければならなかったのか。本当に腹が立った。
あの時も不満、今に至るも不満
まず、閣議了解のことだが、ガット・ウルグアイ・ラウンドの議長、ダンケル氏が示した最終案には「例外なき関税化」とあった。私は「それは困る。ひとつやふたつ、例外があってもいいじゃないか」と言って何度もお願いした。その時の最大の理由は、転作の厳しさですよ。日本の農民はすでに水田の30%も転作している。MA米が入ってくれば、転作面積をさらに増やさなければならない。「もう限界だと言っている農民をどう説得するんですか。だから、米は例外にしてもらわなければならない」と、ダンケル氏や各国に口を酸っぱくして言ってきたわけだ。
ところがこの閣議了解では、いささかも転作を強化しないというわけだ。そうすると、私はウソを言ったことになる。あの時も不満だったし、今に至るも不満だ。
あの時の政府の態度が“汚染米事件”に…
それから、MA米の義務輸入。条約ではコミットメント、機会の提供だ。国内の需給事情によっては買うべきではない場合もあるだろう。それに対して輸出国が文句を言えば、自分たちの言い分を言えばいい。しかも95年から輸入が始まるのに、その前に輸入国たる日本がバカ忠実に100%輸入しなければ義務を果
たしたことにならない、などということをなぜ言ったのか。
今年なんか100%買ってないわけだが、アメリカから「なぜ100%買わないんだ」と言われれば、こういう理由だからと言うわけでしょう。日本の港に着いてみたら、どれもこれもバイ菌だらけだから送り返した。その結果100%輸入しなくても「そんなのオレに責任ないじゃないか」といくらでも言える。
私は、あの時の閣議了解と義務輸入が尾を引いて、今日の「汚染米」事件が起こったのではないか、と思っている。
ミニマム・アクセス(MA)米とは
1993年のガット・ウルグアイ・ラウンド農業合意で、これまでほとんど輸入がなかった品目は、最低限の輸入機会(ミニマム・アクセス)を提供することになった。これを「関税化の特例措置」とも言う。日本では米だけが該当し、この措置によって輸入される米をミニマム・アクセス米と呼んでいる。
1995年に国内消費量の4%分(精米換算で37万9000トン)がはじめて輸入され、その後毎年0・8%ずつ増加して2000年には8%に拡大するはずだった。しかし、1999年に「特例措置」から一般関税化に切り換えたことから、毎年7・2%分(76万6000トン)が輸入されている。この数量は、最も生産量の多い新潟県の65万トンを超える。
(新聞「農民」2008.10.20付)
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