武蔵国忍城戦のドラマ
小説「のぼうの城」
和田竜著
豊臣軍2万と戦い、唯一落城しなかった忍(おし)城戦を描いた『のぼうの城』(和田竜著、小学館)が好評です。農民を味方にした前代未聞の壮大なドラマが描かれています。
“でくのぼう”城代が
農民を味方に豊臣軍と対決
2万余りの軍勢
忍城10万石は埼玉
県東部、現在の行田市に位置します。行田市は、1978年に金象嵌「金錯銘鉄剣」が出土した「さきたま古墳」で有名になったところです。その古墳群の一つ「丸墓山」に、秀吉の命を受けて陣を張ったのが石田三成でした。
三成は天正18(1590)年、小田原城に本拠を置く北条氏を攻撃する50万の豊臣軍の先兵として、2万余りの軍勢を率い忍城に押し寄せました。500の兵が立てこもる忍城を包囲したのは6月4日のことでした。諸将のだれもが簡単に攻略できると思ったこの一戦こそ、秀吉・石田軍が惨敗を喫する唯一の戦いの始まりだったのです。
農民がつけた名
忍城主・成田氏長は500の兵を率いて小田原城に参陣したため、城代を任されたのが成田長親でした。長親は、体は異様に大きいが、刀や槍などの武芸はまったくダメ。馬にも乗れず、できるのは領民のところを訪ねての百姓仕事でしたが、それも麦踏み一つまともにできず、おとなはおろか、女、子どもにもばかにされ、付けられたあだ名が「のぼう様」。殿様の一族でなければただの「でくのぼう」と呼ばれるところで、城を守る家臣たちからも「あのばかがまた城を出て百姓している」とあきれられている始末でした。
城代のひと言で
ところが、三成の軍使の「降るなら小田原攻めに兵を出せ。戦をするなら2万3千の兵がもみつぶす。成田家の甲斐姫を殿下に差し出せ」という横暴な態度に、のぼう様が「戦場にて相見えたい」と言ったから大変。家臣が納戸に押し込め「乱心か」と怒鳴りあげたところ、長親は「武ある者が武なき者を足蹴にし、才ある者が才なき者の鼻面をいいように引き回す。これが人の世か。ならばわしはいやじゃ。わしだけはいやじゃ」「それが世の習いと申すなら、このわしは許さん」と決然と言い放ちました。この一言で成田家臣団はいっせいに武者面をあげ、一戦を決めたのです。
農民が“堤破り”
最初から勝ち目はないとわかっていても、決めた以上は戦うのが武士。家老らが城外の農民を集め、「城に上って戦いに参加してほしい」と説得を始めました。
「負け戦をなぜやるのか、ろう城は断る」「だれがこんな戦を決めたのか」という百姓の声に「長親が決めた」と言ったとたん、ワーッと声が上がり、「あののぼう様が戦をするってえなら、我々百姓が助けてやんなきゃあどうしょうもあんめえよ、なあ、みんな」と、おとなだけでなく女、子どももいっせいにろう城し、その数は城兵を合わせ3740人にのぼったとのことです。
戦いは始まったものの、忍城は「浮城」と呼ばれるように湖の中に各城館が橋によって連なっており、周辺も沼地同然の湿田地帯。忍城軍は地の利を生かし奮戦しました。
そのため、三成は水攻めを決意。利根川と荒川を28キロの人工堤(幅20メートル、高さ9メートル)で結び、水を引き入れ落城を図りましたが、のぼう様を信奉する農民の“堤破り”によって決壊。後世、石田三成大失策と呼ばれた城攻めは失敗したのです。
今も地名に残る
あれから418年が経ち、当時をしのばせるものは三成が築いた“石田堤”です。水攻めから城を守った決壊場所付近に残った280メートル余りの小高い土手が、今は堤根という地名で残っているのみです。
(埼玉県農民連事務局長・松本慎一)
(新聞「農民」2008.9.15付)
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