日本生協連の総会開かれる“安いから”“便利だから”に流されず“安心をかたち”に「CO・OPとやま」理事長 渡辺 美和子さんに聞く日本生活協同組合連合会は六月十二、十三日の両日、東京・品川区で第五十八回通常総会を開きました。今年一月にコープで扱った中国製冷凍ギョーザから発生した中毒事件を受けて、総会では、食料自給率の向上や日本農業の再生についても発言が相次ぎました。
取り扱い中止決定に反対の声なし![]() ――CO・OPとやまでは、ギョーザ事件後、全国で真っ先に「中国製商品の取り扱いは中止します」と表明されました。昨年十月ころから、中国製については組合員さんから不安の声が寄せられ、その扱いを減らしてきましたが、ギョーザ事件が発生し、中国の天洋食品で製造されていた商品も扱っていたので、その処理に全力で対応しました。そのなかで、組合員さんの立場に立って「中止」と決定しました。「なぜやめるのか」とか、中止に反対する声はひとつも聞かれず、共感を得ることができました。 中国製をやめたから“安心”かというと、そうではないと思います。いま「ひとつ、ひとつ安心をかたちにしていきます」と組合員さんに呼びかけていますが、これからがスタートです。しっかりした検査は当然ですが、たとえば中国製商品のなかに、骨抜きのさば煮や魚の切身がありました。ピンセットで骨を一本一本抜いていく手作業は、中国の安い労賃に支えられていました。単に「安いから、便利だから」に流されないで、食料自給率を上げていく取り組みや運動、食のあり方の見直しも含めて、組合員さんといっしょに“安心をかたち”にしていきたいと思っています。
組合員とともに生協の原点に戻って――“これからがスタート”というお話ですが、あらためで生協運動のあり方が問われています。私たちCO・OPとやまは、二〇〇二年に北陸の事業連合から脱退して“単独”の道を選びました。今回のギョーザ事件では、いぜんから職員と組合員さんとのコミュニケーションをはかっていたために、大きな混乱もなく“単独”というメリットがおおいにいかされたと思います。 しかし私たちは、安さや便利さだけを追い求める消費者をつくってきてしまったという反省もしています。協同組合として、もっと社会に目を向けた消費者をどうつくっていくか、そこに生協の原点があると思います。
地産地消をすすめ自給率向上に貢献――〇八年度の活動方針には「食料自給率の向上と日本の農業を守ることに貢献します」とあります。たいへん心強い思いです。私たちは地域の食健連に入って、農民連さんともいっしょに日本の農業・食料を守る取り組みにも参加していますが、最近、販売促進のために生協牛乳のDVDを作製しました。 この牛乳は県内の十四戸の酪農家と契約して販売していますが、エサ代などの高騰で酪農家の経営は大変です。こういう時だからこそ牛乳の消費を増やそう、地産地消を推進しようと取り組んでいます。 富山は米の生産が中心で、野菜の自給率は二〇%程度と全国的にも低いそうですが、量は少なくても野菜やくだものの生産者はたくさんいます。県内には十三の支部がありますが、地域ごとの“支部産直”をすすめ、新鮮な旬の農産物を組合員さんに届けています。こうした取り組みを契機に「産直開発ワーキングチーム」(仮称)を立ち上げました。自給率を上げるためにどういうことができるのかを検討し、来年度からスタートする第七次中期計画の柱にしていきたいと思っています。
大飢饉の農民を救った石見の国の“イモ代官”五月初旬、世界遺産にも登録された石見銀山に一人旅した時の事です。昔、石見の国に“芋(いも)代官”と呼ばれた人がいたという話を聞きました。変な名前だなと思って調べてみることにしました。時代背景にあるのは、どうやら享保の大飢饉(ききん)のようです。 江戸時代の享保年間(一七〇〇年代前半)、凶作が続き、西日本を中心に飢饉が起こった時、石見の国の代官・井戸平左衛門は農民を救うために、当時中国・琉球を経て日本に入ってきたばかりだった、サツマイモの栽培を試みます。さらに年貢米の米蔵を開いて農民に分け与えたために、幕府に咎(とが)を問われて、一説には切腹して果 てたということです。その後サツマイモはどうなったかと言うと、種芋はこの時ほとんど腐ってしまったのですが、ただ一人収穫に成功した農民の手によって石見一帯に栽培法が確立されていきます。死後、多くの民を飢えから救った井戸平左衛門は人々に“芋代官”と呼ばれ親しまれたということです。
西日本には、このような、サツマイモと飢餓にかかわる話がいくつか伝えられているようです。 江戸時代の気候は小氷期と呼ばれ、気温が平均より一〜二度低かったそうです。だから頻繁に飢饉が起きました。この小氷期はなんと明治時代の初めまで続いています。そして凶作に襲われるたび、何十万人という人が飢えて死んでいきました。サツマイモが栽培できる比較的暖かい地方は、まだマシだったのだと思います。僕の故郷、東北地方の悲惨さは、それこそ地獄絵図のようだったと伝えられています。 “欠食児童”や“飢饉”という言葉を耳にしたことはありますが、それを深く考えたことは一度もありませんでした。しかし、今回調べてみて本当につい最近まで起こり続けていた出来事だということを知りました。 そして、忘れてはいけない歴史ってあるんだなって、強く思いました。 (農民連食品分析センター 泉 潤)
(新聞「農民」2008.6.23付)
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[2008年6月]
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