「農民」記事データベース20070827-793-14

私の戦争体験〈下〉

福島・酪農家(元畜全協会長)持田 冠児さん


満蒙開拓義勇軍に憧れ

「敗戦」告げる放送に胸なでおろす

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東京大空襲の炎のあかりで内原訓練所の向こうの筑波山が浮かぶ
 満蒙開拓少年義勇軍のポスターを見て、くわと銃で北辺の守りに立っている紅顔の少年に憧(あこが)れ、志願した。

 昭和二十年三月十日、東京大空襲があったその日、茨城県内原の訓練所へ入所した。東京中隊は十四〜十八歳の少年百五十人である。作業は荒地の開墾と軍事教練で、空襲もなく、食料も案外豊かで暮らしやすかった。

 七月半ばになって、広島県東広島市西条町の訓練所に派遣された。当時の鉄道は現代からは想像もつかないほど、突っ走った。名古屋を通過したころには、両側の客車が紅蓮(こうれん)の炎をあげて溶鉱炉のように燃えさかる中を列車は突っ走った。明け方、空爆を受けた大阪駅の手前で降り、次の駅まで歩いた。駅前は焼け野原で、死体らしきかたまりも見た。

 西条町での仕事は、水田農家の手伝い、加茂鶴という清酒工場の荷役、広島市内陸軍練兵場の開墾で、三班に分かれて一週間交替でこなした。広島市内での作業が予定されていた矢先の八月六日、原爆が投下された。西条駅の上りホームには、おびただしい負傷者が降ろされた。

 八月十五日の玉音放送に、みな胸をなでおろし、やっと戦争が終わった、というのが実感であったと思う。十日後、私たち東京中隊は茨城県内原訓練所に引き揚げることになった。

 練兵場には武装解除で残がいとなった兵器が山積みになり、兵舎裏の診療所からは看護婦たちのにぎやかな嬌(きょう)声が響いて、「平和が来た」という実感が広がった。

 帰るも自由、とどまるもよし、というなか、多くの者が東京の生家に帰って行った。私は福島県白河の山奥を開拓する内地開拓に挑むことにした。

 入植地となった西郷(にしごう)村は、軍馬のきゅう舎があり、広大な牧草地が広がっていた。

 内原から来た少年隊は最終的に七人となり、東京都の援助を受けて、この地に酪農経営の礎を築いた。

(おわり)

(新聞「農民」2007.8.27付)
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2007年8月

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