私の戦争体験〈上〉
福島・酪農家(元畜全協会長)持田 冠児さん
“お天ちゃんのバカヤロー”
学校近くの畑の中に高射砲
福島県西郷村の酪農家、持田冠児さんの戦争体験記を紹介します。
昭和十六年十二月八日、東京・目黒区の尋常高等小学校に入学した十三歳の年、アジアへの侵略戦争に加えて太平洋戦争が始まった。当時の目黒区は田畑が広がり、茅葺(かやぶき)屋根の農家が点在するのどかな田園都市で、私の家族はそのひとすみに住んでいた。
昭和十七年の春、学校から三百メートルしか離れていない畑の一角に、黒光りする高射砲が設置され、子ども心に一抹の不安を感じ始めた。その年の夏には、アメリカの戦闘機が校舎の屋根を爆音とともにかすめた。空襲警報もなく、校庭で遊んでいた私はあわてて校舎に逃げ込んだ。畑の高射砲が迎撃し、砲弾の無数のさく裂片が廊下の窓ガラスを破って降り注いだ。
高等小学校を終えて、近くの町工場に勤めた。工場長は宴会ともなると中国に出征した話を自慢げにしたが、その話は残虐だった。「戦場では殺(や)るか殺(や)られるかの紙一重だった。人間性なんかこれっぽっちもなかった」…。
この工場からも数人が出征した。一番印象に残ったのは、元魚屋のご主人だ。制海権がアメリカに握られたために魚が入荷しなくなり、臨時工員となっていたが、入ってすぐに赤紙が来た。ふだんは威勢がよくて面白い魚屋の主人が、送別会の席上べろべろに酔っ払って「おれは戦争はいやだ。天皇陛下のおんためには死ねない。お天ちゃんのバカヤロー」と叫んだ。すかさず誰かが「♪勝って来るぞと勇ましく〜」と歌いだし、みんながそれに唱和した。
昭和十九年には空襲が増し、私も冬の寒い夜、屋根に上って隣の品川方面の爆撃を見た。メラメラ燃えながら落ちていく焼夷(しょうい)弾で、赤とオレンジ色に空が染まる。迎え撃つ日本軍の曳光(えいこう)弾が幾重にも交差する。絶対忘れられない光景である。
(つづく)
(新聞「農民」2007.8.13付)
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