「農民」記事データベース20070709-787-10

父が語る戦争体験〈下〉

茨城県西農民センター 久保幸子さんの聞き取り


戦争から得られるものなし
9条は変えない方がいい

 残された手紙を…

 戦争が終わり、兵士として戦地に赴いた人たちは次々と帰ってきた。兄も必ず帰ってくるものと思い「いつ帰ってくるのかなぁ」と心待ちにし、生きて再会出来ることを信じて疑わなかった。しかし、終戦後の昭和二十二年ごろのある日、自宅に役場の小使いさんが訪ねてきた。そして、封筒に入れられた通知書を「お気の毒様です…」と持ってきた。封筒には本人の筆跡で名前が表書きされ、中には爪と髪の毛が入っているだけだった。

 その日、姉(三女)から家族ひとりひとりに手紙が一通ずつ手渡された。兄が戦地へと向かう列車に乗り込む直前に「自分に何かあったら机の中を見るように」と、妹に託したものだった。中には「しっかりがんばれ」というようなことが書いてあった。

(一昨年、私が茨城県農民連女性部で靖国神社見学へ行ったとき、図書館で戦没者の行方を調べてくれることを知り、その場で父に携帯電話で伯父の生年月日、部隊名、役職等を聞き、図書館の係官に伝えたところ、何週間かしたころ自宅にデータが郵送されてきました。

 資料によると、伯父は終戦直後に二十二歳の若さで、しかも…かかとのケガではなく赤痢で亡くなったそうです。どんなに帰りたかった事でしょう。どんなにか無念だった事でしょう。私は会うことの叶わなかった伯父を想い、胸が痛みました。)

 さつまいも一本で

 日々の生活で食べることが出来なくなったのは、終戦直後から三年間ほど。もっとも育ち盛りの小学校高学年のころだった。一食に、細く小さなさつまいもをたった一本。それさえもすぐ上の兄に取られ、さつまいも一本で一日を過ごしたこともある。野草やいものツルで飢えをしのいだ。人は食べなくては生きることができない。食べものがないという現実は、誰もが「生きたい」と自分自身を守ろうとする本能だけがあからさまになる。他人のことを考える余裕はなくなる。家族でさえも空腹を解消するために、わずかな食糧を奪い合い、関係がぎくしゃくする。

 分け与えようとする人ばかりではない。農村であっても、畑を耕す役割の若者の労力は戦争にとられ、供出によって物はなく作物を農家が抱え込む。都会からの買い出し部隊にも、持ってきたお土産の良し悪しによって売る売らないを決める。助け合うなどという言葉は、もはやきれい事でしかない。学校の校庭まで耕して作物を作ったが、もし今の時代に同じ様な食糧難の事態になったとしたら、土のない校庭、アスファルトの地面が広がる公園…。どのように作物を作り出せるのか、とても心配。

 心が壊され奪われ

 戦争から得られる物は何もない。一度失ってしまったものはなかなか元には戻らない。失うのは物だけでなく、人としての精神、心が壊され奪われる。戦時中は、誰もが自分の思いを口には出せなかった。そういう状況だった。だから、平和を願うというより「(戦争が)早く終わればいい。もう嫌だ…」と思った。

◇  ◇

 父は、憲法九条そのものについては積極的には語らない。私から尋ねた。「憲法九条は変えない方が良いと思う?」、父は言葉少なに「…そうだね。そう思うよ…」と答えた。

(おわり)

(新聞「農民」2007.7.9付)
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2007年7月

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