父が語る戦争体験〈上〉
茨城県西農民センター 久保幸子さんの聞き取り
恐ろしかった空襲警報のサイレン
“戦争が早く終われば良い”と
茨城県西農民センターの久保幸子さんは、戦争を体験した人が高齢化し、風化していくのではないかと危ぐ。そこで、身近にいる人から戦争体験を聞き取り、多くの人たちに知ってもらおうと、手始めに父親から戦争体験を聞き取ることにしました。
父は昭和十年生まれの亥(い)年。今年七十二歳になります。生まれ育った所は東京都東村山市秋津町。埼玉県所沢市との境目にあたる農村地帯で都心とは離れています。
姉三人、兄四人の八人兄弟の五男で末っ子でしたが、次男と三男は父が生まれる前の幼児期にすでに亡くなっていたので、両親と子ども六人の八人家族でした。父が二歳の時に母親が亡くなったため、仕事を持つ父親に代わり、年の離れた兄と姉が面倒を見てくれていました。
B29が飛び交って
昭和十九年、父が小学校四年生のころ、B29による東京への空爆が始まった。東村山は何もない田舎であったために爆撃はまぬがれたが、それでも空襲警報のサイレンの音やB29が飛び交う光景は恐ろしかった。
ある日、自宅の斜向かいの土地にB29が落ち、残がいは何カ月も放置されていた。放置されたというよりは、みんな自分自身の生活を守るため、片づける余裕がなかった。そこには飛行機の残がいと乗組員の手や足がころがっていた。胴体は人としての形がなくなり、皮だけが残っていた。今はネズミの死体一匹でもギョッとするが、当時は見慣れてしまい怖くはなかった。子どもたちは付近に落ちていた棒きれで転がっている腕や足をつつき「金髪だ」とか「絹の靴下だ」と脱がせてみたり、「マニキュアしてる」などと言って観察して遊んでいた。しばらくしてから死体は集められ、土に埋められた。後に死体は十二人ほどの人数だったと聞いた。子ども心にも「敵」などとは思わず憎しみの感情などなかった。
姉らが軍需工場に
同級生の父親が近所の寄り合いで「そろそろ日本は負けるよ」などとひとこと言ったばかりに憲兵隊に連行されひどい目にあったといううわさが流れ、人はみんな、戦争の行方について良いも悪いも口をつぐみ、本当のところは何を願いどう思っているのかは分からなかった。ただ、死ぬのが怖くて兵隊になりたいとは思わず、何しろ戦争が早く終われば良いと思っていた。
姉二人(長女と次女)はシチズンの工場に勤めていたが戦争中は軍需工場となり、朝から晩まで武器を作らされ、二人とも二十代前半で亡くなった。長男である兄は、通信兵として南京へ行った。戦闘地域の最前線へは行かなかったが、一緒に行った人に聞いた話では、機銃掃射にあたり、かかとを負傷したとの事だった。
(つづく)
(新聞「農民」2007.7.2付)
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