「農民」記事データベース20070618-784-06

私の戦争体験と反省〈上〉

埼玉農民連顧問 野本 家六さん(88)の手記

 埼玉農民連顧問で、埼玉産直協同上里グループ責任者の野本家六さんの米寿を記念して、「野本家六さんの米寿を祝う会」が五月十三日、盛大に開かれました(写真〈写真はありません〉)。「祝う会」のパンフレットに掲載された野本さんの戦争体験手記(要約)を紹介します。


引き揚げたら私の戸籍なし

人を殺しても罪悪感ない軍隊

 昭和十五年十一月三日、私は二十一歳で現役兵として日中戦争に出征しました。終戦の翌年の六月に帰国した時は、すでに戦死したことになっていて、役場の戸籍から抹消されていました。

 出征当時、私の家族は負傷をして帰ってきたばかりの兄と母の三人家族でした。出征の日、母は奥の部屋から出てきませんでした。たぶん泣いていたんだと思います。そのころは“天皇陛下のために一命を捧げるのはこの上ない名誉なことだ”と教育され、人前で涙を流すことなど許されませんでした。

 捕虜を突く訓練に

 私が入隊した所は、中国北部山西省の小さな町でした。そこで最初に受けた教育は、初年兵を横一列に並ばせ、目隠しをして後ろ手に縛った捕虜を穴の前に立たせて、それを班長が「やあーッ」という掛け声とともに銃剣で突き刺して模範を示す、というものでした。また河原をはさんで百メートル先に捕虜を縛っておき、小銃や機関銃で射撃する訓練もさせられました。そこでは人を殺すことは罪悪だという感覚などはまったくなく、むしろ手柄とされました。

 討伐(とうばつ)に出て、この部落をあやしいと判断すれば、略奪、放火などなんでもやります。老夫婦が手を合わせているのもかまわず民家を焼き払ったこともあります。

 昭和十六年の大みそかの晩、敵に逃げ道をふさがれ、私の小隊は雨のように降ってくる弾丸の中を突撃しました。途中二十八人いた仲間のうち目的地までたどりついたのは七人だけでした。この後私も負傷して仲間からはぐれてしまい、三日四晩さまよい歩き、とうとう敵の捕虜になってしまいました。

 “自決”を教育され

 さあこれからがたいへんです。日本軍にとって捕虜になることは最大の恥辱で、捕虜になるくらいなら自決しろと、全員が手りゅう弾を二個ずつ持たされていました。しかしいったん捕虜になってしまうと、自決しようなどという気持ちは出てこない。なんとか生きていたい、それだけでした。

 同じ作戦で五十人ほどが捕らえられましたが、ほとんどが負傷者でした。なかにはひん死の重傷を負って「あー、妹がきた」などとうわ言を言っている人もいました。その人は幾日かして死にました。収容所といっても薬はヨードチンキぐらいで、着ているシャツには縫い目にシラミが行列を組んでいます。重傷者の死亡が幾日か続きました。

 しばらくして中国第二俘虜(ふりょ)収容所に移されました。収容所に着くと、一人もいないはずの日本軍の捕虜が三百人くらい収容されていました。

(つづく)

(新聞「農民」2007.6.18付)
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2007年6月

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