工場周辺で34年間農作業
飛散粉じん吸い身体に異常
農民なのになぜ石綿(アスベスト)肺に
苦しんだ父の遺志つぎ
国の責任求めて裁判
大阪・泉南
全国各地で深刻な石綿(英名アスベスト)被害が広がっています。粉じんを長期間、大量に吸い込んでいると肺疾患など深刻な健康障害を引き起こす石綿被害が、工場労働者だけでなく、周辺住民や農家にまで拡大しています。大阪府南部、泉南地域の住民らは、国の責任を求めて、裁判に踏み切りました。八月三十日に第一回の口頭弁論が開かれました。
田畑汚染、作物も大被害
農地の中に工場が
泉南地域には、一九六〇年代から七〇年代半ばまで、二百を超える石綿工場が建ち並んでいました。もともと農村地帯だった泉南地域。工場周辺には住宅と農地が混在していました。最大規模だった泉南市の三好石綿(後に三菱マテリアルに吸収)は一九一九年から七七年まで操業。工場撤退後の跡地は現在、マンションになっています。
当時、石綿の粉じんが工場内に充満し、周辺住宅や農地に飛散していました。周辺の田畑は、工場内の粉じんを外に吐き出す集じん機からの粉じんによって、雪が積もったように真っ白に覆われることもしばしばでした。
加えて化学薬品が粉じんとともに、空中に舞い上がり、これが液化して土壌に浸透。稲やタマネギ、フキが壊滅するなどの被害もでました。
目の周りに粉じん
集じん機に一番近い田んぼを耕していた奥田千代造さん(78)は、周辺住民らとともに工場を訪れ、「田畑に被害が出ている。健康上も心配」と対策を求めました。応対した責任者は「中の労働者はこんなに元気に働いているのに、外の人がなぜ」と、意に介す様子はありませんでした。
石綿による健康被害は通常、二十年から四十年の潜伏期間があります。「鉄砲を撃つ人は死なない。撃たれる人が死ぬんや」と抗議しつづけた奥田さん。「最近体がしんどい」と、肺の周りの膜が厚くなる胸膜肥厚で病院通いの毎日です。
奥田さんらとともに工場に抗議し続けてきた南和子さん(63)も、住居、農地とも石綿工場のすぐそばにあり、「農作物が育ちにくい」などの異変に気づいていました。父の寛三さんが、タマネギ作りのために三十四年間通った畑は、石綿工場の窓の直下にあったため、農作業を終えて帰宅した寛三さんの目の周りはいつも粉じんによる白い粉で覆われていました。
寛三さんは、七十四歳だった八七年に血たんを吐いて、病院に運ばれました。胸のレントゲン写真を見た医師は「石綿工場で働いていたんか」と質問。身に覚えのない寛三さんを目の前に「なぜ左の肺に石綿が刺さっているのか」と不思議がる医師。そのとき寛三さんは、農地のすぐそばに石綿工場が建っていたのを思い出したのです。
苦しみ訴えたい
その後、寛三さんの容体は徐々に悪化。最後の一年間は、酸素吸入器を手放せず、入浴や着替えだけで呼吸困難に陥りました。昨年一月に病院に運び込まれたときも、手足をばたつかせ、胸を突き上げて苦しみました。和子さんは当時を振り返り、「父の着替えを手伝っていると、手足が棒のようにやせ細り、ミイラのようでした。これが父なのかと目を疑いました」と涙を浮かべます。
昨年二月、寛三さんは九十一歳で息を引き取りました。亡くなる三日前に、和子さんを病床に呼びました。「こんなしんどいことがあっていいのか。工場長を呼んでこい。この苦しみを訴えい!」。これが最期の言葉でした。「米やタマネギを作ってきた父がなぜ石綿肺を患うのか」。和子さんは、寛三さんの遺志を継いで、立ち上がることを決意したのでした。
生きているうちに
今年三月、阪南市内で、石綿被害の救済と国の責任を明らかにする緊急集会が開かれ、南さんも「父の無念を晴らすために、裁判の原告となってたたかいたい」と力強く訴えました。こうして南さんをはじめ、元労働者や近隣住民八人が原告団を結成し、五月二十六日、「国の対策が不十分だったため、被害が拡大した」として、国家賠償を求める集団訴訟を大阪地裁に起こしました。
奥田さん、南さんが所属する農民組合阪南支部協議会も裁判を支援。常任顧問の西野恒次郎さんは、近隣農家にも立ち上がるよう呼びかけています。農民組合としても七月、府にたいして、土壌汚染の実態調査と科学的分析を要請。府も前向きの答弁をしました。
今年二月に成立した「アスベスト新法」では、保護の対象が肺がんや中皮腫(ちゅうひしゅ)の患者に限られています。「石綿肺など多くの被害者が救済されずに、苦しんでいます。国の不作為を追及し、父の無念を晴らすとともに、被害者が生きているうちに救済を勝ち取りたい」。南さんの強い決意です。
(新聞「農民」2006.9.4付)
|