平和憲法のありがたさ知る
農林水産九条の会呼びかけ人
農業・農協問題研究所理事長
宮村 光重さん
海軍兵学校の教官の家に育つ
兄貴三人だれも父親の跡を継がない。四男の私は、一九四三年十二月、日本の負けが見えていた筈の頃、東京・築地の海軍経理学校に生徒入校した。「総員起こし五分前!」、当直一号生徒の殺した声。コツコツ甲板棒の音に重なり、魚河岸に入る漁船のピイピイ鳴らす汽笛が、寝耳に届く。
親父は日露戦争のあと、海軍兵学校で航海術の教官となった。太平洋戦争になると、親父中心の話題にたえず登場するのが陸軍の戦術判断をけなす議論だった。あの精神主義、いきり立ち、根拠のないハッタリ、日の丸に必勝と書けば神風で勝てると錯覚する思い込み。これらがヤリ玉にあげられていた。寺田寅彦のファンでもあった親父からは、実態に目を向けて理解する、ある種の合理的精神が、中学生時代の私に伝えられていたような気がする。
ところで、太平洋戦争の戦局転換のひとつとなったミッドウエー沖海戦(一九四二年六月五日)で、四隻の空母のうち最初に撃沈されたのが航空母艦「加賀」である。「加賀」は、当初四万トン級の世界最大の戦艦として進水していた。ワシントン軍縮条約(一九二一〜二二年)で空母に改造された。軍備削減は、戦争回避の国際的意思が整えば実現しうるとの教訓が伺えるのではないか。
ところが、無条約時代(一九三七年〜)に入るや、内閣と軍首脳は、大艦巨砲主義の妄想にしばられ、「大和」「武蔵」を建造した。軍事戦略的に無謀というほかはない。
平和の下でこそ発展できる農業
こんな育ちの私が、根っこから平和・民主主義の思想と行動に移るには、容易でなかった。父親だけの影響ではもちろんないにしても、私が農業経済学を志した時分、陶淵明の詩から、「力耕吾れを欺かず」の書をもって激励してくれた。
学び、多少の活動をするほどに、歴史の苦い教訓から将来の礎とした日本国憲法が、世のため人のため、どれほどありがたい宝物であるかを知ることができる。
農業くらい平和な産業はなく、平和であってこそ農業は発展できる。農業を担う家族経営が提携し助け合う農業協同組合は、平和な農業を国民的価値として支える役割を果たす。その農協は、自治と自立を原則とすべきであり、この期に及んで日本農業を崩壊に導いた張本人である自民党に肩入れするなど、海軍流に物申せば、「もってのほか」と断ぜざるを得ない。
〈プロフィル〉
一九二六年、東京生まれ。海軍経理学校を終戦で修了。東京大学農学部農業経済学科卒業。青森短期大学を経て日本女子大学教授。定年退職して同大学名誉教授。一九九三年から十年間、東都生協理事長。主著「国民生活における農業・食糧問題」 全四巻 (筑波書房)
(新聞「農民」2006.7.17付)
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