鉱毒・人権・平和問題など民衆とともに
生涯かけ、たち向かった姿生きいきと
田中正造ドキュメンタリー映画「赤貧洗うがごとき」
監督 池田 博穂さんにきく
1950年、秋田県生まれ。全農映をふり出しに、山本薩夫、今井正などの監督に師事。近作は、ビデオ「憲法=今と未来の世代のために」や、全国で上映中の長編記録映画「時代を撃て 多喜二」など、「平和」と「生きる大切さ」を描いて好評を博しています。
いま、谷中村廃村百年企画、田中正造ドキュメンタリー映画「赤貧洗うがごとき〜田中正造と野に叫ぶ人々」の撮影・編集が最終盤にさしかかり、急ピッチで進められています。試写会の日程も八月三十一日(東京・中野ゼロホール)に決まりました。お忙しいなか、映画監督、池田博穂さんに話を伺いました。
今の憲法に近い考えもっていた
―いまの時代に、なぜ田中正造の映画を企画したのですか。
池田 正造は、足尾銅山の鉱毒問題に取り組んだことで有名です。とくに天皇に直訴したことが話題になりますが、それにとどまらず、人権や平和の問題に民衆とともに生涯取り組んだ人です。
映画のなかでも取り上げていますが、日露戦争が始まろうとしているときに、「軍隊を全廃して軍事費を人民の福祉に振り向けるべきだ」と演説しています。晩年の正造を支えた島田宗三さんの子息の早苗さんは、「正造は、いまの憲法に近い考えを持っていた」と言っています。こうした正造の生き方は、いまの時代に私たちが何をしなければならないか、次代を担う若者に何を用意しなければならないかを教えてくれます。
“下野の百姓なり”という正造
―そうした正造の言葉に、「予(よ)は下野の百姓なり」というのがありますね。
池田 正造は名主の長男に生まれ、農民とともに育ちました。名主として、不正な役人とたたかったという体験もしています。農民が持っている限りないやさしい心、そしてすべての命を育む農業の大事さを知っていたからこそ、足尾銅山から流れてくる毒で、渡良瀬川の魚は死に、農作物は枯れ、人の命まで奪われたことに、激しい憤りを感じたのだと思います。
史実に反しないように苦労も…
―映画づくりでは、どんな苦労がありましたか。
池田 この映画はドキュメントです。史実に反していれば大変なことですから、在野の研究家の方々をはじめ、可能な限り多くの方にシナリオをみてもらいました。
冒頭の場面では、レイチェル・カーソンが環境汚染を告発した「沈黙の春」の一節を、女優の藤田弓子さんに朗読してもらうのですが、その映像を撮るためにアメリカへも行きました。
また、正造役を演じてくれた石神先生をはじめ、「葬列シーン」に浴衣や襦袢(じゅばん)を持参して着物姿で土手を行進してくれた地元ボランティア・エキストラのみなさんなど、本当に助けられました。
九月九日の茨城県古河市から、上映運動がスタートします。ぜひ、多くの方に、会場に足を運んでほしいですね。よろしくお願いします。
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※この映画は、多くの方々の出資金・協賛金で製作されています(出資金は一口十万円、協賛金は一口三千円)。詳しくは、ドキュメンタリー映画「正造Shozo」製作委員会/(有)共同ヴォーロ内
電話03(3812)9215まで。
《田中正造》
田中正造は、一八四一年に下野国小中村(現、栃木県佐野市)で名主の長男として生まれた。明治はじめには自由民権運動に参加。栃木県議になり、さらに第一回総選挙で衆議院議員に当選。渡良瀬川沿いの人々を救うため、足尾銅山の鉱毒問題を繰り返し国会でとりあげ、一九〇一年には天皇に直訴。しかし、鉱毒事件は解決せず、治水の名のもとに滅亡に追い込まれようとした谷中村を救おうと、同村に移り住み、農民とともに村の再建に取り組む。一九一三年、七十一歳で世を去った。
(新聞「農民」2006.7.3付)
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