「食管法」つぶしに“軍靴”の音が…農林水産「九条の会」よびかけ人・農業 坂本進一郎さん
〈プロフィル〉 一九四一年宮城県仙台市生まれ。六四歳。東北大学卒業後、北海道東北開発公庫に勤務。一九六九年、秋田県大潟村に第四次入植者として農業に従事し、現在に至る。著書に『亡国農政に抗して』『農民よ、もっと怒りを』『農民の声を聞け』など多数。
一九七八年(昭和五十三年)、秋田県大潟村で四年間続いた「青刈り闘争」は、農民側の敗北で終わった。このとき、村全体で二千ヘクタール、私も一・四ヘクタール青刈りさせられた。青刈りの稲田をみて、つくづく「国敗レテ山河アリ」の感がした。食糧管理法の三本柱は、全量買い上げ、国による流通規制、国境措置である。その食管法の一角が崩れ、本来は平和な中で営農に打ち込みたかったのに、「青刈り」というキバむき出しの仕打ちに、皮膚感覚ではあったが「軍靴」の音を聞いた。
戦争になったら生活にしわ寄せしかし、これを皮切りに食管法はどんどんつぶされて、中曽根臨調のとき、農水予算も軍事予算も同額の三兆五千億円だったのに、いまや農水予算は三兆円を切り、その切り捨てた分が軍事予算に回っている。イラクに対する給油の支援も一兆円になるのではないかと言われ、いまの政府のやりかたを見て、そんな思いやり予算があるなら、農業振興策にまわしてほしいと叫びたくなる。戦争になるとこのように、一般国民の生活にしわ寄せが来る。私は一九四六年(昭和二十一年)、五歳のとき、満州から母子三人で引き揚げてきた。父はシベリアに抑留されたのか死んだのかわからなかったので、母の実家に二年疎開した。引き揚げはたいへんであった。とくに父のいないわが家は、母がリュック半分に着物を入れ、その上に三男(二歳)を入れ、首から新京(長春)で死んだ二男のお骨箱をぶらさげた。おかげで私も重要な働き手で、着物を入れたリュックを背負わされ、両手に着物を包んだ風呂敷包みを持たされた。
自叙伝かくため友人訪ねると…当時、大連はソ連が支配していたので港は使えず、関東軍にストップをかけられ未完成のコロ島港を使うことになった。港といっても、補助港として石炭の積み出しをやっているくらいであった。それゆえ船の横っ腹に平行して作られた桟橋は、歩くとグラグラ、ユラユラ揺れ、両手に風呂敷包みを持っているので、ロープをつかむことができず歩くのに難儀した。私は、自叙伝『一本の道』を書くため、新京の住宅で隣家であった青野さんを高知に訪ねた。しかし、すでに死亡しており、息子氏が応対してくれた。青野氏は『満州農業技術史』を書くため、一年徴用され、帰るときは写真などの入った行李(こうり)三つを持って帰ることができたそうだ。 私の父はきちょうめんな性格なので、おそらく日記をつけていたと思う。それゆえ、一九四四年(昭和十九年)の早い段階で戦争を終わらせていたら、日記や写真などは持って帰ることができたのではないかと、悔やまれて仕方がない。日記をみれば、興農合作社(満州版農業協同組合)の姿がよくわかったに違いないのである。
寒さ吹き飛ばす餅つき埼玉 春日部楽農倶楽部「よいしょ」「よいしょ」の掛け声が寒さを吹き飛ばします。埼玉・春日部楽農倶楽部主催の餅(もち)つきが十二月二十五日、高橋晃会長宅の庭で行われ、三十七人が参加しました。(写真〈写真はありません〉)何十年ぶりに杵(きね)を持ったという人がペッタンコン、ペッタンコンと餅をつき、掛け声をうけました。参加者は、つきあがった餅をアンコやきな粉、ダイコンの辛味をつけて食べました。「おいしい餅を食べられて幸せ」という声があがりました。子どもたちが、一生懸命に鏡餅を作りました。 (春日部楽農倶楽部 西村正昭)
(新聞「農民」2006.1.23付)
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[2006年1月]
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