「農民」記事データベース20050815-696-16

アメリカはあの第二次大戦の末期、
日本にも枯葉作戦を準備していた


 ベトナムでの枯葉剤被害を記録しつづける報道写真家

      中村 梧郎さん 

 なかむら ごろう フォトジャーナリスト。1940年、長野県生まれ。99年から04年まで岐阜大学教授(メディア論・環境文化論)。枯葉剤問題の報道で83年、ニコン第8回伊奈信男賞受賞、ユージン・スミス賞にもノミネート。96年、日本ジャーナリスト会議特別賞。03年、ベトナム政府より文化功労賞授与。ホーチミン市戦争博物館で「戦場の枯葉剤」を常設展示中。

 著書に『母は枯葉剤を浴びた』(新潮文庫)、『環境百禍』(コープ)、『写真で何ができるか』(大月書店)、『戦場の枯葉剤』(岩波書店)など。


 ベトナム戦争終結(75年4月30日)から30年。米軍の枯葉作戦によるダイオキシン被害を世界で初めて告発した報道写真家・中村梧郎さんは、東京や大阪で写真展「枯葉剤の30年」を開催。今でも被害に苦しむベトナムの人たち、また加害者であり被害者でもある米軍の復員兵士の悲惨な姿は胸に迫るものがありました。


 不気味な 「音のしない世界」 に

 枯葉作戦は当時、空軍による散布の写真ばかりで、被害の状況は報道されませんでした。そして戦争が終結すると多くのメディアはベトナムから引き揚げていきました。

 私は戦争終結の翌七六年、ベトナムの被害状況の取材に入って、その惨状に目を奪われました。ベトナムを北から南へ縦断し、南ベトナム最南端のカマウ岬には、道路がないので半日かけて小舟で行きました。ジャングルやマングローブの樹林が枯れて、猿や鳥の鳴き声も聞こえない、全く「音のしない世界」でした。

 上陸しようとすると、案内人が「毒が残っていて危険だから上陸するな。舟から撮影しなさい」と言う。しかし、被害の状況を撮らないわけにはいかない。泥だらけになって撮影していると、枯れた森の中で子どもが一人遊んでいました。「こんな所で遊んでいる子どもがいる…」と撮った一枚が、私の「枯葉剤追及三〇年」のきっかけになりました。

 その少年は後に結婚して四人の子どもの親になりましたが、脳性マヒの症状が進行して今は完全に寝たきりの状態です。

 カマウ岬の村では、最近ここに移り住んだ助産婦さんの話にびっくりしました。「流産や死産が多く、奇形児も多い。長いことやってきたが初めてだ」と言う。「これは何かあるはずだ。長期的に調べる必要がある」と思い、取材の機会を作ってはフォローしてきたのです。

 ベトちゃん、ドクちゃんと出会う

 何回か取材を重ねるうちにダイオキシンの極めて深刻な被害が見えてきました。ところが世間の目はベトナムから離れ、戦争の「悲惨な後遺症」に目を向ける議論は盛り上がりませんでした。

 やがて「ベトちゃん、ドクちゃん」に出会いました。生まれてまだ十カ月、ハノイの病院にいました。生まれたのは南ベトナムの中部高原で枯葉剤散布の目標地点です。

 一つの胴体に二人つながった「瘉合(ゆごう)二重体児」。ショックを受けながら撮影しました。その後、切り離す手術をした時もベトナムへ行き、最初から最後まで撮影しました。幸い成功し、ベトもドクも今年二十四歳。「よくぞ成長した」との思いです。

 ダイオキシン調査でアメリカへ

 枯葉剤に含まれる毒がダイオキシンだということは戦争中から報道されていました。しかし、「その毒がどういうものか」、当時の日本にはデータも専門書も全くなかった。

 その後、名古屋大学の伊藤嘉章先生が、スウェーデンの平和研究所(SIPRI)の『ベトナム戦争と化学作戦』という本を翻訳し、かなり詳しく紹介しました。さらに資料を探していると、研究者から「アメリカにしかダイオキシンの資料はない」と知らされました。

 それから、アメリカでも被害を受けた元兵士が国に補償を要求しているというニュースが入り、アメリカへ飛びました。ベトナム戦争から七年目くらいのことでした。

 調査を進めると、化学企業は、人体に影響があることを認識したうえで製造したことが判明。政府も報告を受けていました。これは明らかに意図的な「戦争犯罪」です。

 復員兵士の中には、がんを発症したり、障害のある子どもが生まれたりしていました。政府はベトナム帰還兵に傷い軍人手当などを出しています。しかし、それ以外の人たちには“雀の涙”ほどの補償しかしていません。それも、化学企業から解決金を集めた「ファンド」に支払わせています。

 戦争に協力した韓国の元兵士が訴訟を起こしましたが、アメリカ政府は相手にしない。ベトナムの被害者らの訴えも連邦地裁が却下。枯葉剤の人体影響を、アメリカ兵には認めるが、他国には認めないというわけです。

 アメリカは、日本の原爆被爆者への補償も、イラク戦争で使っている劣化ウラン弾の放射線被害の責任も取らない。

 原爆も枯葉剤も使用可能だった

 アメリカは第二次大戦末期、日本にも枯葉作戦を準備していました。スタンフォード大学のバーンスタイン教授の『対日枯葉作戦の全貌』という論文に記されています。

 アメリカ軍のプロジェクトチームは当時、「原子爆弾」と「枯葉剤」の両方を開発していました。そして一九四五年に両方とも準備を完了。原爆は二個完成。枯葉剤はB29を改造した「散布機」に積み込み、グアムに集結させていました。

 戦争末期の日本は、大変な食料危機。大都市の周辺にある米や野菜の産地を全滅させれば、何十万何百万の餓死者が出るという作戦でした。

 八月に原爆を投下し、それでも日本が降伏しなければ十一月に枯葉作戦を決行することになっていました。日本が降伏したので、枯葉剤はそのままストックされました。

 それをノウハウも含めてベトナムで使ったのです。放射能もダイオキシンも人体に蓄積し、今なお人びとを苦しめています。許しがたいことです。

(聞き手)角張英吉
  (写 真)関 次男

(新聞「農民」2005.8.15付)
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2005年8月

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