“希望の新天地”満州開拓に夢託した松川村(長野)悲惨な歴史乗り越え今「9条の会」発足戦後六十年、各地で相次ぐ「九条の会」の結成。長野県松川村(人口一万人)でも、戦前・戦中の満州への開拓移民という悲惨な歴史を乗り越えて、「九条の会」が発足。憲法を守る新たな一歩を踏み出しました。
北アルプスのすそ野に広がる扇状地とのどかな田園風景が訪れる人の心を和ませる松川村。日本有数の米の産地です。最近は「安曇野ちひろ美術館」や村営温泉施設への観光客でにぎわいます。
松川村の村長も期待のあいさつ六月十八日、「松川村・九条の会」発足のつどいが開かれました。踊りや合唱など楽しい雰囲気のなか、参加者百人の「なんとしても憲法を守りたい」の熱気でいっぱいに。平林明人村長もあいさつし、「会」への期待をのべました。会場には、代表呼びかけ人の一人、画家の成瀬政博さん(58)のデザインしたポスターが掲げられ、輝きを放ちました。成瀬さんの孫が生まれたとき、空にかかっていた虹をヒントに作成。「戦争のない平和な世界をつくろう」の願いが込められています。 長野県農民連・中信農民センターの佐山嵩米部会部長は「戦中、戦後の開拓農民が多い松川で、悲惨な戦争の歴史を風化させてはならない。農民だけでなく、各階層の人々に広げることが大事」と力を込めます。
風化させてはならない歴史は…「風化させてはならない歴史」とは…。昭和に入り、世界恐慌の影響で、稲作と養蚕に頼ってきた村の経済は大きく落ち込みました。働き盛りの男性の多くは召集され、戦地に赴きました。苦しい生活を打開すべく、大勢の村人が開拓移民団として、また十代の青少年たちは満蒙開拓青少年義勇軍に加わって、満州(中国東北部)へと渡っていったのです。長野県だけでも満州に赴いたのは、三万一千人で全国一。そのうち約半数は再び日本の地を踏むことができませんでした。 「開拓ではなく、土地の取り上げ以外の何物でもなかった」。一九四〇年、小学生のとき、両親と兄、弟二人、妹二人の家族で、開拓移民として満州に渡った降旗肇さん(77)は振り返ります。 「食料不足と伝染病で、周りはバタバタと死んでいった」と回想する降旗さん。四五年の敗戦を境に関東軍に見捨てられ現地住民やソ連軍の襲撃にさらされました。父は病死、兄はシベリアに。弟二人とは生き別れになりました。母と妹二人は脱出をあきらめ、自決の道を選びました。 小四の妹静かに漫画読み 首はねられる番を待ったと 降旗さんは、満州での悲惨な事実を短歌で詠み、短歌集『自決と逃避行』にまとめました。
平和運動の中心だった農民たち「希望に満ちた新天地」を満州に建設するという“宣伝”に踊らされ四五年に満蒙開拓青少年義勇軍に志願した工藤良二さん(75)。茨城県内原での訓練中に終戦を迎え満州に行かずに済みました。松川村で開拓農民として農業の発展に尽力することになります。工藤さんらは、当初、砂と石だらけだった河原などに、粘土を馬やトロッコで運び、稲作ができる環境づくりに奔走。いまの田園風景と豊かな米づくりには、工藤さんら開拓農民のこうした努力が秘められているのです。 西原特栽米生産組合の組合長も務める工藤さんはいま、有機・低農薬の特栽米「りんりん米」を村の特産にしようと張り切っています。 中信農民センターの宮田耕治組合長も「九条の会」代表呼びかけ人の一人。宮田さんは言います。「平和運動の中心をになってきた農民たちが『九条の会』発足に大きく貢献しました。若い人たちにも参加を広げ、引き続き平和運動、農業振興に力を尽くしたい」
(新聞「農民」2005.8.15付)
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[2005年8月]
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