「満州開拓団」の悲劇のりこえて
いま高齢者福祉の村に
長野・泰阜村
三月七日から十二日まで、東京・銀座のギャラリー・アートグラフで、「『安心の村』は自律の村―」をテーマに、長野県泰阜(やすおか)村の写真展が開かれました。満州農業移民の悲惨な歴史を経験し、いまは安心して老後が送れる自律の村づくりに励む泰阜村を撮り続けた(獣医・酪農業)大洞東平さん(74)=栃木県那須町在住=に胸の内を聞きました。
「安心・自立」テーマに写真展
獣医・酪農家の大洞東平さん
私が写真展を開いたのは、泰阜村のことを多くの人に知ってもらいたいとの思いからです。
泰阜村は、平家の落人が住みついたという説があるほどの険しい山地のなかの一山村です。人口二千人のうち、高齢者が四〇%近い、過疎化した村で、厳しい自然環境のなか、村民は、農業などを営んでいます。
敗戦直前、 六百人超す犠牲者
一九九五年に私は、三三年に満州に移民した「千振開拓団」の写真証言集『銃を持たされた農民たち』(築地書館刊)を出版しました。その際、満州に農業移民を送り出した人数が、都道府県のなかで長野県が飛びぬけて多かったことに興味を持ちました。長野県は、二位の山形県の二・四倍でした。なぜなのか、気にかかっていました。
調べてみると、当時、養蚕を農業の基幹としていた泰阜村は、世界大恐慌によって、壊滅的な打撃を受け、村民の生活は窮乏していました。村は、三七年に当時の国策である「満州農業移民」にその打開策を求めました。村を挙げて送り出した人数は、敗戦直前の在団者が千百三十九人。しかし、四五年八月九日のソ連参戦により、現地は大混乱に陥り、過半数の六百三十八人が命を落とすとともに、多くの残留孤児・婦人をも生みました。
医療費無料化など多くの福祉策
九七年に、私は、難民が吹き溜まりとなって五千人以上といわれる死者と多くの残留孤児・婦人を出した旧満州の方正地区を訪れました。残留婦人の二世を写真に撮り、すでに帰国していたお母さんに届けました。それが今回展示した写真に写っている佐藤治(はる)さんです。それがきっかけで、村に足しげく通うようになりました。
そこで私が見たものは、元気で楽しそうに仕事をし、暮らしているお年寄りたちでした。幸せで穏やかな表情。そうした農民たちが村を支えている。もし農民が村からいなくなったら農山村は荒れ果ててしまうでしょう。
お年寄りが元気な理由は、村が村民のための行政を行っているからです。高齢者の医療費を無料にしたり、介護保険で独自に助成を実施するなど、福祉を充実させることで、お年寄りが安心して老後を生き、村づくりに励むことができるのです。
村は、「満州農業移民」で多くの犠牲者を出した苦い教訓から、安易に国策に乗らず、国がレールを敷いた町村合併にも反対しています。合併すれば、今まで実施してきた村独自の福祉施策を維持することが困難になります。
平和の尊さを深くかみしめて
「国策に従うよりも村民を守るための努力こそが地方自治の原点」と村長が言うように、自律の精神でがんばっています。
私は、中学二年のとき軍需工場に動員されて、休日返上でおとなと同じように一日十時間も働き、幾度もアメリカ軍の爆撃を受けたりするなど、戦争を体験した世代です。力によって自分の無理を押し通し、正論をねじふせるという戦争が間違いだということは、今までの歴史が物語っています。憲法改悪に反対し、九条は絶対に守らなければなりません。
戦争で、一番被害を受けるのは、一般の市民、民衆です。こうした戦争の悲惨さを、泰阜村の写真展を通じて知ってほしかったのです。
写真展は、五月二十一日から六月六日まで、私の居住地の栃木県那須町で開催します。その後は、取材にご協力下さった村民への感謝の気持ちも込めて、写真は寄贈することにしています。
(新聞「農民」2005.4.4付)
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