忘れてはならない8月15日証言 私の戦争体験
戦争教育に抗した勇気ある父の影響強制された予科練を拒否兵庫県 上野宏樹さん (75歳)私の旧制中学時代は、戦争の真っ只中でした。 小学校の先生をしていた父は、教え子の出兵に対して、「敵でも人を殺してはいけない。君はお母さんのために帰って来い」―これが送別の言葉でした。当時は、「天皇陛下のために戦死せよ」という戦争教育をしている時代ですから、勇気のいることでした。 こうした父の影響があって、私は「大宇宙の中の地球で、瞬間を生きる人間同士の殺し合いはよくない」という作文を書いたために、学校側から神風特攻隊の練習生「予科練」に志願するよう強制されました。私は最後まで拒否しました。このため、卒業するまで勤労学徒動員で阪神地域の軍需工場へ働きに行き、本土決戦のための迎撃陣地の建設を強いられました。だから八月十五日の敗戦が、学徒動員から解放された「私の卒業式」と思っています。 父は戦時中、「学芸会の内容が、戦争協力でない」などの変な理由で教職を追われ、町の中でただひとり英語が話せるということで、「スパイではないか」と警察関係が家の周りを監視・巡回するようになりました。父は敗戦直後、亡くなってしまいましたが、復員してきた教え子は、「先生の教えどおりにせっかく帰ってきたのに」と、遺影の前で泣いていました。 戦後、近所の空き地に少しばかりの野菜を作りましたが、それだけでは足りず、野草やドングリを団子にして食べたり、青物市場で捨てられた野菜をもらったりして飢えをしのぎました。空腹の時代を生きた者として、いまの「食」にかかわる問題には貪欲なほど関心があります。 いま、東京都は「君が代を歌わなかった」「日の丸に起立しなかった」と先生方を処罰していますが、憲法九条の改悪と相まって、私の青年時代の「忠君愛国」教育を復活させようという動きが、顕著です。戦争を体験した者として、憲法や教育基本法が、あの戦争の反省の上にたって作られたことを、多くの人たちに語っていかなければと思っています。
(新聞「農民」2004.9.20付)
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[2004年9月]
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