「農民」記事データベース20040913-651-05

忘れてはならない8月15日

証言 私の戦争体験


火薬抱えソ連戦車に体当たり訓練

地凍るシベリアで強制労働

 福岡県 尾花 肇さん (78歳)

 私は、一九二六年、福岡県浮羽郡御幸村(現在の浮羽町)に生まれ、百姓の子でしたので跡を継がねば、と思っていました。

 一九四三年、十八歳のとき、徴用工として八幡製鉄所に勤め、自ら志願して徴兵検査を受けました。一九四四年一月、満州関東軍守備隊に入隊。ソ連に対する戦車攻撃の練習をさせられました。具体的に言うと、戦車が通りそうな道に人が入れるほどの壕(通称タコツボ)を掘り、そこに目だけを出して火薬を詰めた木箱を持って入り、戦車が来る直前で飛び出し、戦車にぶつかっていく、という訓練です。まさに特攻隊です。

 八月十日頃、ソ連が国境を越えて侵攻。しかし、一歩手前で敗戦。幸いにして生き延びることができ、これで内地へ帰れると喜びましたが、思いもよらぬことに、ソ連軍によってハバロフスクの北、コムソムリストという山の中に連れて行かれました。この時、『もう日本へは帰れんな』と思いました。

 ここは、九月半ばには雪が降り、十一月には大地が凍るというようなところで、氷点下四〇度以下だと、仕事は休み。それ以上だと、森林伐採の仕事があります。氷点下三〇度以下になってくると、顔を針で刺されたようで、ただただ痛い。指先はいつも凍傷にかかっていたようでした。このときの食事は、黒パン一個にスープで、とにかく腹がすきました。それで、馬に先に食べさせて大丈夫だったら人が食べるというように、雑草や木のコケなど食べられるものは何でも食べました。収容所には、寝台とペチカだけで風呂はなく、水もなく、凍った川をつるはしで割ってそれを煮炊きに使っていました。

 私は幸い、撃ち合うという経験はなく、一九四八年六月、四年六カ月ぶりに舞鶴港にもどりました。鳥栖駅(佐賀県)まで父母が迎えに来てくれていました。

 志願して行ったとはいうものの、生きるということがどんなにつらいか、死んだ方がましと、何度思ったことか。戦争ほど悲惨なものはありません。二度と戦争を起こしてはならない、憲法九条を守っていかなければと、強く訴えます。

(新聞「農民」2004.9.13付)
ライン

2004年9月

農民運動全国連合会(略称:農民連)
〒173-0025
東京都板橋区熊野町47-11
社医研センター2階
TEL (03)5966-2224

本サイト掲載の記事、写真等の無断転載を禁じます。
Copyright(c)1998-2004, 農民運動全国連合会