忘れてはならない8月15日証言 私の戦争体験
火薬抱えソ連戦車に体当たり訓練地凍るシベリアで強制労働福岡県 尾花 肇さん (78歳)私は、一九二六年、福岡県浮羽郡御幸村(現在の浮羽町)に生まれ、百姓の子でしたので跡を継がねば、と思っていました。 一九四三年、十八歳のとき、徴用工として八幡製鉄所に勤め、自ら志願して徴兵検査を受けました。一九四四年一月、満州関東軍守備隊に入隊。ソ連に対する戦車攻撃の練習をさせられました。具体的に言うと、戦車が通りそうな道に人が入れるほどの壕(通称タコツボ)を掘り、そこに目だけを出して火薬を詰めた木箱を持って入り、戦車が来る直前で飛び出し、戦車にぶつかっていく、という訓練です。まさに特攻隊です。 八月十日頃、ソ連が国境を越えて侵攻。しかし、一歩手前で敗戦。幸いにして生き延びることができ、これで内地へ帰れると喜びましたが、思いもよらぬことに、ソ連軍によってハバロフスクの北、コムソムリストという山の中に連れて行かれました。この時、『もう日本へは帰れんな』と思いました。 ここは、九月半ばには雪が降り、十一月には大地が凍るというようなところで、氷点下四〇度以下だと、仕事は休み。それ以上だと、森林伐採の仕事があります。氷点下三〇度以下になってくると、顔を針で刺されたようで、ただただ痛い。指先はいつも凍傷にかかっていたようでした。このときの食事は、黒パン一個にスープで、とにかく腹がすきました。それで、馬に先に食べさせて大丈夫だったら人が食べるというように、雑草や木のコケなど食べられるものは何でも食べました。収容所には、寝台とペチカだけで風呂はなく、水もなく、凍った川をつるはしで割ってそれを煮炊きに使っていました。 私は幸い、撃ち合うという経験はなく、一九四八年六月、四年六カ月ぶりに舞鶴港にもどりました。鳥栖駅(佐賀県)まで父母が迎えに来てくれていました。 志願して行ったとはいうものの、生きるということがどんなにつらいか、死んだ方がましと、何度思ったことか。戦争ほど悲惨なものはありません。二度と戦争を起こしてはならない、憲法九条を守っていかなければと、強く訴えます。
(新聞「農民」2004.9.13付)
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[2004年9月]
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