「農民」記事データベース20040906-650-03

忘れてはならない8月15日

証言 私の戦争体験


車窓からみた残酷で悲惨な光景

おびただしい日本兵の死体の山

 京都府 平野 力さん (80歳)

 私は、一九四四年、満二十歳のとき徴兵検査を受け、京都から青森県弘前の部隊に入隊しました。十日ほどして中国東北部(満州)の黒河近く山神府の輜重隊(しちょうたい=軍用品の運搬)に転属し、初年兵教育を受けました。一期の検閲を受けたあと、私は、獣医師の資格をもっていたものですから、長春(かつての新京)にあった陸軍獣医学校に幹部候補生として入りました。そのときに、ソ連軍が満州に侵入してきたわけです。

 私たちは、たこつぼを掘って、爆弾をかかえてソ連軍の戦車に体当たりする肉迫攻撃体制に入っていました。その後、敗戦したことがわかり、部隊長以下、手りゅう弾を持ち自決を決行しようとしました。しかし、「まだ関東軍は負けていない」ということで、関東軍の司令部があった通化をめざしましたが、軍命令により吉林で武装解除。そして、シベリアのチタへ送られました。シベリアでは各地を転々として、一九四九年八月、ようやく帰国したのです。

 その中で、忘れられない光景は、興安嶺の山中に斃(たお)れていた兵士たちの姿でした。行き先も告げられず、日本軍俘虜(ふりょ)を乗せた貨物列車は、北満の雑木林の中を走っていました。私たちは今、俘虜としてソ連軍の監視のもと輸送されているのです。

 ふと外を見ると、夥(おびただ)しい日本軍の死体があちこちにあるのが目の中に飛び込んできました。それは、私たちと同じ服装でした。私たちと同じようにソ連軍とたたかい、力尽き戦死したのです。祖国日本には、かれらを待つ肉親がいる、なんとかしてやりたいと思うものの、なにもできないのです。

 あのような残酷で悲惨な光景は、今も忘れられません。戦争をさせなかったなら、憲法九条があったならばと、思わずにはいられません。

(新聞「農民」2004.9.6付)
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2004年9月

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