忘れてはならない8月15日証言 私の戦争体験
それは「灰色」「死」で塗りつぶされた青春だった宮崎県 小田 治さん (77歳)一九四一年十二月八日、宮崎中学校(旧制)の二年生だった私は、校庭で開かれた朝礼で、真珠湾攻撃での我が軍の大きな成果を聞いて心が躍ったことを鮮明に思い出します。 ●軍隊志願 小学校に入って六年間、「ススメ、ススメ、ヘイタイススメ」の国語教育。「キクチコヘイハ、シンデモラッパヲ、ハナシマセンデシタ」の修身教育を受けて育った者にとって、日本がドイツ・イタリアと同盟を結んで米英を攻撃し、大東亜共栄圏の楽園を築くとの理想に燃えて、すべての行動を律してきた思春期だったのです。 旧制中学校の四・五年生は上級の学校への受験が許され、疑うこともなく私は陸軍士官学校と海軍機関学校(後に海軍兵学校舞鶴分校)の両方を受験し、海軍を選びました。以来、敗戦までの十一カ月間、寝室の温度が零度以下の冬を初めて体験し、尻から血が出るボートの訓練など、灰色の青春を送りました。敗戦の放送を聞いたのが学校の食堂だったこと、そして何かホッとした開放感を味わったことも思い出します。 ●原爆の爪跡 帰郷中、広島駅で止った列車から原爆の跡を見たのが十月、宮崎農専に転入したのが十二月。一九四八年に卒業して現在まで、農業を続けて来ました。地元農協の役員や農業委員・議員などさまざまな役職を激しい選挙戦で勝ち取り、田畑を耕しながら持ち続けてきた思想的背景は何だったのか? 日本の敗戦によって得られた憲法、そしてむさぼるように読んだ当時の本の中で、大きな転機になったのが、河上肇の「貧乏物語」だったように思います。 戦争のなかで青春を過ごした者の一人として、子や孫に同じ思いは絶対にさせてはならない。それが憲法九条を守るということだと思います。
中国の農民の土地・財産を略奪…満州開拓義勇隊の悪夢岩手県 寺田 旭さん (77歳)私は、一九二六年、栃木県足利市で生まれました。六人兄弟の三男坊で、一番上の兄は特攻隊で戦死しています。一九四一年九月、満十四歳の時、いまでいえば中学二年生ですが、「二十町歩の大地主になれる」という宣伝に乗せられて、満蒙開拓青少年義勇隊に入り、中国・満州の奥地、勃利(ボツリ)へ行きました。その年、栃木県からは五百人以上の少年が満州へ渡ったのです。 満蒙開拓青少年義勇隊というのは、「赤い夕日の満州に五族協和の王道楽土を築く」をうたい文句に、全国で約八万六千人以上の十四歳から十八歳の少年が満州に渡り、その三分の一が亡くなったのです。 ●大きな悲劇 私は、勃利(ボツリ)の訓練所から、中隊長の命令でハルピンの幹部訓練所にまわされました。開拓団の村といっても、原野を切り開くのではなく、中国の農民を追い出して土地や財産を略奪したということで、砂上の楼閣でした。 軍隊に徴兵されたのは、敗戦直前の八月十三日でしたから、軍隊生活の経験は少ししかありませんが、ソ連軍が南下し、現地の中国人は土地や財産を奪い返そうと、大変な怒りのなかで、大きな悲劇がたくさん生まれました。まさに、山崎豊子さんの小説「大地の子」そのものでした。 ●奥地を転々 敗戦の後、私はハルピンから牡丹江に移されソ連に連行されそうになりましたが、背が小さかったせいで役に立たないと思われたのか、またハルピンに戻されました。中国奥地の開拓団には、帰国を知らされずに取り残された日本人が多数いました。こうした日本人を救済するために中国にとどまり、一九五三年になんとか帰国することができたのです。 私は、満州で過ごした十二年間を決して忘れることができません。戦争というものがどんなに悲惨なものか、八月十五日が来るたびに思い出します。いま、憲法九条を改悪しようとする動きがありますが、あの戦争を体験し生き残った者として、ぜったいに認めるわけにはいかない。体を張って九条を守っていかなければ、と思っています。
(新聞「農民」2004.8.16付)
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[2004年8月]
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