明治の老農 船津伝次平〈上〉「国際コメ年」の今年、明治の老農・船津伝次平(でんじべい)が著した『稲作小言』が注目されています。伝次平の出身地・群馬県富士見村で長年研究を続けている柳井久雄さんにお話を聞きました。著書『船津伝次平』を参考にしながら、三回連載します。
「大農法論」に反対する農学校の農民教師船津伝次平は、江戸時代の天保三年に生まれ、明治三十一年に六十六歳で亡くなるまで、日本の激動期を生きた人です。明治の初め、政府は産業を興すこと、特に農業を盛んにすることに力を入れ、大久保利通内務卿は各県から農業にすぐれた人を推薦させました。伝次平と会った大久保内務卿はすっかりほれ込んで、農民としてただ一人、東京駒場農学校の教師に採用しました。伝次平が四十六歳の時です。 駒場農学校の農場は、「泰西農場」(西洋農場)と「本邦農場」(日本農場)の二つに分かれていました。駒場農学校を作った理由は、農業を発展させるため、日本と西洋の農業を比較研究させるためだったのです。 若い頃から農業技術の改良に熱心だった伝次平は、日本の農業のよいところと、西洋の農業のよいところを混ぜ合わせた「混同農業」を学生に教えました。
日本には向かないところが、明治中頃、井上馨農商務大臣が外国を視察して帰り、欧米の大農法をわが国にも取り入れようと考え、新式の大農機具を盛んにアメリカから輸入し、それを、まず駒場農学校で実用するように命じました。しかし伝次平は、日本の農業は、大型農具と多数の人を使ってする欧米の農業とは違うと反対。「日本は、耕地が少ないうえ、山国で高いところから低いところまであり、しかも気候の変化も激しいという、欧米とは違った土地と気候である。だから日本の農業は、大農法に向いていない」と反論しました。伝次平は、狭い土地をていねいに耕し、多くの収穫を上げていくのが日本の農業であると信じていました。 伝次平は、駒場農学校に辞表を出して去り、その後、『稲作小言』を書き、大農論者に反論しました。当時、農民の就学率、識字率が低かったため、八八調の文章『稲作小言』をチョボクレ節で歌って広めました。 次回は、その『稲作小言』の文章をとりあげます。 (つづく)
(新聞「農民」2004.6.7付)
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[2004年6月]
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