「農民」記事データベース20040426-633-12

私と米

今年は「国際コメ年」


農業立国こそ日本にふさわしい

菊地 定則(81)

 私は山形県の片田舎に育ったため、米はうまかった。塩をつけただけのにぎり飯がうまかった。田舎では大根漬けさえあればおかずはいらない。これは米が良質でうまかったからである。そしてご飯をよく食べた。ご飯がなければ力がでない。村の若衆の力は米から生まれていた。私は今でも米が大好きである。

 長じて、世界各国を歩くことになった。私は、パンでも何でも食べるがやっぱり主食は米が一番。米を食べる民族はいるがやっぱり日本の米が一番おいしい。このおいしい米は、先人が長い年月を経て改良に改良を加えて生まれたのである。そして米は日本人に一番ふさわしい主食である。

 「とよあしはらのみずほの国」この日本列島は古くから米を主食にしてきた。うまい米は、よい水田である。水田を中心にして村が成り立った。戦国時代は、水田を作り、曲がりくねった道にし、田に水を入れることによって城を守った。うぶすな神があり、道祖神があり、小高い丘がある。森があり、林があり、広々とした水田が広がる。これが秋には黄金色の波になる。何とすばらしい光景か。食物というのは、そこの民族性を育む。まさに「とよあしはらのみずほの国」である。

 この農村が破壊されてきている。世界的に破壊されてきている。資本主義という金万能の魔物によって破壊されてきている。農村の滅亡は、日本国の滅亡である。

 おいしい米を作るために農村を活性化する。幸い「国際コメ年」である。これを機会に日本国の基本政策を根本から見直すことを提起する。農業立国こそ、平和日本にふさわしい。

(前橋市)


食べられなかった握り飯

平野  力(80)=獣医師=

 それは食糧難の戦時中のことです。休暇で田舎に帰り、東京の研究所の寮に戻るため、列車に乗り、昼飯を食べようとした時のことです。当時は国中食糧難、米は配給制度で一人一日二合三勺、代用食の豆粕が入っている米でした。帰るとき、私の家は農家でしたから白米の握り飯を母が作ってくれました。

 しかし、そんなのが見られると、国賊のように言われた時代です。ノリを巻いて、白米が見えないようにしてありました。

 風呂敷から弁当を取り出しましたが、昼になっているのに誰も食事をしようとしません。食物がないのです。駅弁など、どこにも売っていない時代です。恥ずかしかったですが、手で隠すようにして食べかけたところ、みんなが私に目を向けます。向こう側の座席に、三歳くらいの幼児が座っており、じっと見つめています。

 普通なら、その子どもにあげたらよいのですが、与えたらノリで巻いて隠してある白い銀飯が出てくるので、みんなに分かってしまいます。差し上げることもできないので、食べることをあきらめ、空腹を抱えながら辛抱して目的地まで行きました。

 今、イラクや東南アジア、アフリカなどで飢餓にあえいでいる多くの人々がいます。何でも作れば作れる日本で、力いっぱい食糧増産して、飢える人々に、そして日本の人々にも食べてほしいと思います。

(福知山市)

(新聞「農民」2004.4.26付)
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2004年4月

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