「農民」記事データベース20040329-629-06

山原健二郎さんを偲んで

農民連顧問 小 林 節 夫


 とうとう山原健二郎さんと永いお別れになってしまいました。

 一昨年暮に「あと半年の寿命」と宣告され、「寿命の月」を目の前に、いっせい地方選挙で病身をおして街頭に立たれたのでした。

 衆議院では山原さんは一貫して文教委員でしたが、不思議と農民連とは縁が深く、また、ここ一番というときには日本共産党の農林水産委員として立ち現れました。とくに九三年十二月の国会で、コメ輸入自由化をめぐって先生は演説原稿をかなぐり捨てて、国会と国民をあざむく政府を火を噴くように追及されました。あのときの先生の雄姿にどれほどその後のたたかいが励まされたことでしょう。自民党のある代議士でさえ、「最近はもうああいう演説をする政治家がいなくなった」と嘆声を上げたということです。

南(みんなみ)の熱き炎にくらぶれば赤き絨毯(じゅうたん)色褪せて見ゆ

 若き日の情熱が歳月を経てなお盛んなお姿に胸を熱くしたものでした。

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 牛肉・オレンジの輸入自由化が決まった翌八八年正月、遅い新年会のとき、先生から土佐文旦を頂き、初めてその味を知りました。これが、土佐文旦の産直が全国的に展開するきっかけになりました。

 また、ある年の六月初旬、高知の日曜市で楊梅(やまもも)を買った夜、先生がお目当てのお店が休みで、やむなく別のお店の一隅でごちそうになったこと、そして、宮尾登美子さんの「楊梅の熟れる頃」の話や、まだ楊梅が少し時期的に早いというお話をお聞きしたことを思い出します。

 その月の下旬、先生から宅急便で楊梅をたくさん送っていただきました。あたかもその日、労働組合の人たちと横浜で「コメ輸入自由化反対」「農産物総輸入自由化反対」の海上デモをしたので、その楊梅を皆でいただいて、とても盛り上がりました。

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 農民連の機関紙に月三回、二年半にわたって、題字の横にわずか百四十字で「農をうたう」を書いていただきました。先生をして「百四十字に地球を閉じ込めるようなもので、なかなかの大仕事」と嘆かせ、「飛行機の中でも書く」というようなご負担をお掛けしました。農業にまつわる日本一短いエッセイです。一見、農業に無関係に見える題材でも、先生のペンにかかると、不思議と「農のこころ」が輝くのでした。

 第四回農民連大会で感謝状を差し上げた時、「これまで小学校の皆勤賞以外、表彰状や感謝状のようなものはもらったことがない」と山原さんがごあいさつされたときには一同あぜんとしたものでした。今の社会での「叙勲」とか「表彰」というものに何と無縁な方かと驚き、また何とこの世に目明き盲が多いことか、あらためて思い返しました。

 そのときのごあいさつで、「勤評反対闘争の時に刑務所に入れられ、懲戒免職という処分も受けました。たくさんの友人も首を切られてきました」とも申されました。

 そういう剛直の反面、「学校は劇場のように楽しい所でなければならない」とつねづねいわれた深い見識と生徒へのやさしさがありました。いつも「人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と諭吉の言葉を口にされたということです。先生は生涯教育者だったのですね。

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 農民運動の中で最も重い思いをしたのは、高知の勤評反対闘争のなかで農民組合ができた歴史を知った時でした。

 「今まで味方だと思っていた農民から、大変な攻撃を受けた事件(反動勢力にけしかけられて、農民が教師を襲撃し、五十八人の教師が重軽傷を負った事件)に、『これは、いったい何だろう』と台風のさなか教員組合の大会を三日間ぶっ続けで開き、徹底的に議論をし、議論の末に、労農同盟とか労農提携と言ってきたけれども、『本当に農民の立場に立ち、ともにたたかってきただろうか』という反省のうえに、『農民組織を作ろう』というスローガンを掲げ、一挙に千五百名の組織を結成した」というお話をされました。

 ですから、私は高知の教育会館に行くたびに、勤評反対闘争の大きな画の中央にいる先生のお顔を見て、「農民運動は何をしているか」と叱咤(しった)される思いがしました。

 いま、困難はあっても「維新前夜」の気がしてなりません。先生の志を継いで新しい世紀をがんばりたいと思います。

(新聞「農民」2004.3.29付)
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2004年3月

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