「農民」記事データベース20031222-616-17

茂木信平さんのこと

小川 政則


 横丁に靴音鳴れば特高に

 追われし子かとはね起きし母

         藤沢市 茂木信平

 二年ほど前、朝日新聞の歌壇に島田修二選を見つけ電話をさしあげた。その茂木さんが十月十七日、九十四歳で亡くなられた。通夜と告別式には全国から多くの参列者が集い、温かなその人柄を偲び悼んだ。弔辞では、多年にわたり農業経営者運動を続けている仲間たちから、茂木さんが一貫して「農業経営者の自立と主体性確立」に努力された話や「困難な時はまず自力で、ダメなら仲間と一緒に、それでもダメなら仲間の輪を広げてたたかえ」と教えてこられたことなど感動的な紹介があった。

 茂木さんは東京の下町生まれ。栃木県茂木町の殿様の子孫である。東大経済学部に学び、新人会や東大事件に関係され治安維持法の犠牲者となった。冒頭の短歌はそのころの追懐である。戦前の知識人には、貧しい農業農村問題にナロード的意識を持つ人が多いが、茂木さんは卒業後、全国購買組合連合会に就職し、戦争中勤める。治安維持法下も不転向で「下手くそなレポをやった」「二十歳くらいまでしか生きられないと思っていた」と、友人に話している。イラク派兵や日本国憲法の改悪などに当面する今、茂木さんの不屈な生き方に学ばなければと思う。

 戦後、全購連を辞めて民主的な農協運動をめざし、日本購買農業協同組合連合会の立ち上げと組織拡大に努力するが、結核で倒れ、療養生活に入る。新しい農協運動が思うようでなく、健康回復後、全国農業会議所に勤める。ここで、農家の税金問題、農業法人・農業経営者協会などに精力的にとりくみ、定年後も全国養鶏者会議事務局長などを歴任された。また、平井次郎さんとともに、畜全協や農民連の活動を支援された。

 茂木さんの業績は、農業者団体に生涯身を置きながら、戦前の反省のうえに農政の一端にできるだけ関わらず、農民が主人公の経営者運動を立ち上げ、組織者としての役割を果たされたことではないかと思う。とくに人柄が温厚で、人を差別せず、誰の話にも熱心に耳を傾ける聞き上手であった。囲碁や読書が好きで、「文学者になりたかった」とも話している。九十歳代でも現役のように多くの人とつながり、手まめに葉書を出し、電話をかけ、資料の切り抜きや読み終わった本を、年齢のはるかに違う人に送ったりしていた。友好関係は広く同世代の学者、団体や農水省OB、マスコミ関係者などと囲碁の「農政天狗会」を続けていた。茂木さんほど人々から慕われ、畏敬された人を知らない。

 鵙啼くや翁居ぬ地球寂びしけり   水草

(新聞「農民」2003.12.22付)
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2003年12月

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