三上満さんが語る賢治と農業〈3〉
本当の幸せ求めた賢治のロマン今も
人々救えるのは天上ではできぬ「ほんとうの幸い」を求め続けた賢治は宗教者です。法華経の信者です。 宗教者は、神や仏の救い、救済、キリスト教の場合は神の福音、それへの信仰が根本でしょう。仏の永遠性というものを信仰しなければ宗教者にはなりえないでしょう。 そういう点では、賢治だって救済者であるところの仏の永遠性を信仰した人であることは間違いない。だけど、同時に、どういうふうにしたら救われるのかということでいえば、ただひたすら死後の救いを待ち望むという信仰ではなかった。むしろ仏の指し示す道をもっと実践して、人々のために尽くす、人々を救う、その菩薩道にこそ、この世に浄土をつくるという信仰者としての宗教的実践があるという立場です。そういうことを描いたのが「銀河鉄道の夜」です。 銀河鉄道にはタイタニック号の遭難者たちが乗り込んでくる。そして、みんな天国へ行く駅に一番近い南十字星のサウザンクロスの駅で降りていこうとする。「そんなところで降りなくてもいいじゃないか」「だって私たちは、神さまのところに行くんだから」「天上へなんか行かなくたってもいいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が言ったよ」「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまがお仰っしゃるんだわ」「そんな神さまはうその神さまだい」といきり立ってジョバンニ少年が少女と論争する。ところが、サウザンクロス駅に停まると、乗客がみんな賛美歌「主よみもとに近づかん」を歌いながら降りてゆく。だが、ジョバンニは降りない。 天国への入り口であるサウザンクロス駅に着いても、ジョバンニ、すなわち賢治は降りない。降りないという物語を書いたことの中に、賢治の一番の思想的な基盤があると思います。天上よりももっと良いところをつくらなければならない。天上での救済ではない。本当の仏の道は、仏の教えを実践して、この世に浄土をつくることだと。 洋の東西を越えて同じような形で主張したのがトルストイですね。トルストイはロシア正教会のお祈りを拒否した。ほんとの神の心を実現するのは、地上に神の王国をつくることなんだ、祈りや儀式による救済ではないと。「僕の先生がそう言ったよ」という「僕の先生」はトルストイです。 やがて乗客がみんな降りてしまった銀河鉄道は、ジョバンニとカンパネルラだけになる。やがて南十字星駅からガタンと汽車が出ると、そのすぐ脇に暗黒星雲があります。これは実在の暗黒星雲で、コールサック(石灰袋)というのですが、その脇を通る。 その暗さはどういう暗さかというと、「いっくら目を凝らして見ても、シンシンと目が痛むばかりで、何も見えないとほーんと空いた真っ暗な闇」。その闇を見ながらジョバンニは叫ぶ。「僕もうあんな大きな暗(やみ)の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう」。 賢治が言ったそんな大きな暗とは、何なのか。まさに資本主義の闇であり、あるいは自然という暗でもあったのかも知れません。「どんな暗の中でもこわくないぞ」といい、天国へ行く駅では降りない。みんなの幸せのために尽くそうという決意を抱いて、やがて夢から醒めて、お母さんの所へ戻っていく。 賢治の本当の人間の幸せへの思いは、闇を表現する中にも表れています。「目がしんしんと痛むばかりで何も見えない、とほーんと空いた闇」という表現は、ほんものの暗さを知っていなければ書けないですよ。ほんものの暗さというのは、単なる物理的な暗さではなくて、賢治が経験した社会の暗さを表している。いかに暗くたって、みんなの幸いを求めていこう。天国で降りないぞ。この賢治の修羅、この熱意、これを今の時代に受け継がなくてはならない。 「今」とは未来と過去のたたかいの場です。今には、乗り越えられて良いような過去がしがみついたり、時々よみがえってきたりするものです。しかし同時に、確かな未来も芽生えています。
報復では絶対に解決しないテロアメリカのブッシュ大統領は過去をよみがえらせた人物だ。先制攻撃というとんでもない過去の遺物をよみがえらせた。朝日新聞が九月三日付で載せた米外交問題評議会主任研究員のマックス・ブーツという研究者は「9・11」の同時多発テロ問題で、アメリカは「やさしい一極支配」を続けなければならないと発言していました。ひどい思い上がりです。 宗教や文化、政治の形も違う多極化した世界で人々が認め合い、助け合いながら生きていく社会、そこに未来社会の姿があります。サミットに対抗している世界社会フォーラムや非同盟運動でも、そういう考えが全面に出てきている。過去と未来を読みとりながら、生きていかなければならないのが現代です。未来というものを読みとるには、未来を感じ取る感性、未来を読みとることができる知性、それに私は、もっと大胆に夢を描くロマンが今の人類にいると思います。みんなの本当の幸いを求めて行くんだと言った、あの賢治の明日にかけるロマンが…。 「農民芸術概論綱要」はその当時の人が読んだら、「なんだこれ」と思ったんではないでしょうか。労働を芸術の領域まで高めようといっても、毎日、肥溜めをかついでいる中では「何が芸術か」ということになる。 だけど考えてみたら、賢治が羅須地人協会でやろうとしたことは夢みたいなことではなかったと思います。この時代に羅須地人協会に近いようなものが現実に農村に生まれてきているのではないですか。農村を基盤にした劇団もあれば、文化団体もある。農村を基盤にした文化は、生まれている。 (つづく)
(新聞「農民」2003.10.20付)
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[2003年10月]
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