「農民」記事データベース20030908-601-15

病と闘い23年 鹿児島県農民連発展につくした松下みよ子さんを偲ぶ

墓前にいま誓う“遺志、必ず引き継ぐ…”

実兄が手記

 鹿児島県農民連の結成時から活動してきた松下みよ子さんが七月十四日、心不全のため死去しました。五十五歳でした。
 松下さんは、鹿児島県連執行委員、鹿児島県産直センター事務局長、串木野日置農民組合役員として、難病の試練に耐えながら、夫の兼文さん(県連執行委員、前市来町町議)とともに、鹿児島の農業と農民経営を守るために奮闘してきました。
 松下さんの実兄・丸野武人さん(鹿児島県連事務局長)から「妹・松下みよ子を偲んで」という一文が寄せられましたので紹介します。
(編集部)


 逆境に負けず

 七月十四日午前一時すぎ、みよ子の容体が急変して病院に搬送したとの電話があり、東市来町の病院に走った。ときすでに遅かった。顔は普段と変わらず、まるで疲れて寝ているように見えた。思わず、頬を軽くたたいて「起きて何か話さないか」と叫んでしまった。

 昨日(七月十三日)までは、鹿児島市に来て難病連の仕事をし、運転して帰宅している。まるで精一杯活動しながら、ひょいと越えてはならないラインをまたいでしまった。日頃の、ありのままの姿で、後戻りできない世界に旅立った、そんな死に方だった。

 みよ子は一九四八年六月三日に生まれたが、病弱な母体から生を受けたこともあって、数々の試練を乗り越えなければならなかった。五歳のとき、母が肺結核で入院。六歳で父の死。九歳で母の再入院、一家離散して伯母に引き取られ、小学校の途中で、長兄夫婦に育てられる。母とは、十六歳のとき死別。幼少のみよ子の経験が、持ち前の逆境に強い性格の源泉となったと思う。

 腎移植手術

 十八歳で大阪に就職するが、二年ほどして腎臓病にかかる。私が、労働組合の会議で上京した折り、途中下車してみよ子を見舞ったとき、「兄さん、私も腎臓が悪くなった」と寂しそうに言った。父が腎不全で、すぐ上の兄(二十九歳で他界)も当時腎臓を患っていたので言いようのない不安におそわれたのであろう。

 その後、鹿児島に帰り兄が経営する電気関係の事務の仕事を手伝う。そして縁があって松下兼文君と知り合い結婚し、長女あゆみ(現在二十三歳)を出産する。

 その間、みよ子の腎臓はゆっくりだが悪い方向に向かっていき、一九八五年三月に透析治療をしなければならなくなった。九〇年九月に兼文君の腎臓の提供を受け、腎移植の手術が成功した。まったく出なくなっていた尿が出始めた喜びを隠さず語ってくれた。

 移植の効果は六年間維持できたが、再び透析治療を余儀なくされ、今日にいたったのであった。八五年に透析治療を始めてから移植の手術をはさんで、腹膜炎などで何回手術を受けたかわからないほどの試練に耐えた。

 がんばり母さん

 兼文君が市来町の町議になるため八二年に移住したが、みよ子は兼文君のよきサポーターとして奮闘するかたわら、週三回の透析治療のハンディを乗り越えつつ、母親の役目もこなし、農民運動の中核として頑張り続けてきた。

 昨年暮れ、少なくない出血があり、緊急入院したのを機に、農民連の任務を大幅に軽減したが、頼まれればいやと言えない性格で、とても病人とは思えないほど多彩に動き、活動に惜しげもなく時間を費やしてきた。

 人生の大半を病気とたたかい、二十三年におよぶ透析治療は、徐々に他の器官を老化させていく。最近は、心臓弁膜の機能が弱まり、本人は秋にも北九州の病院で心臓手術にいどむ決意をし、「母の年齢まで生きたから、あと十五年は頑張りたい」と言っていた矢先のあまりにも急な旅立ちであった。

 みよ子は、私とちょうど十歳違いであったが、農民連運動では私よりはるかに先輩であり、日々、指導・援助を受ける関係にあった。

 小泉自公政治のもとで農業破壊と食糧の輸入依存が強まり、いまこそ産直運動の飛躍をはかるべきというときに、本当にかけがえのない活動家を失ってしまった。みよ子が果たしえなかった遺志を引き継ぎ、農民運動の前進のために奮闘することを改めて誓うものである。

(新聞「農民」2003.9.8付)
ライン

2003年9月

農民運動全国連合会(略称:農民連)
〒173-0025
東京都板橋区熊野町47-11
社医研センター2階
TEL (03)5966-2224

本サイト掲載の記事、写真等の無断転載を禁じます。
Copyright(c)1998-2003, 農民運動全国連合会