何気なく使っている日本語
歌舞伎などの芸能に由来する
いま評判の本『ことばの花道−暮らしの中の芸能語』
著者、演劇評論家 赤坂 治績さんに聞く
〔プロフィール〕 一九四四年山梨県生まれ。劇団前進座、演劇出版社(「演劇界」編集部)勤務を経て、演劇評論家。歌舞伎を中心に演劇批評を執筆するかたわら、日常の日本語の中に定着した演劇の言葉や名せりふについて研究、新聞・雑誌に発表し好評を博している。
いま『ことばの花道―暮らしの中の芸能語』(ちくま新書)という本が評判になっています。私たちが何気なく使っている「間が悪い」「ピンはね」「どんでん返し」といった言葉が、歌舞伎などの芸能に由来していたとは知りませんでした。新聞の文化欄やNHKラジオの「私の日本語辞典」に登場するなど“注目の人”となった著者にインタビュー。日常語と芸能語の関係、演劇や芸能とのつきあい、農村歌舞伎の取材話などを楽しく伺いました。
つい先日、近くの図書館に行きましたら、受付の方から「うちの講座に出て話をしてくれませんか」と声をかけられたんで、びっくりしました(笑い)。
『ことばの花道』書くきっかけは
僕は前進座に十五年ほどいて、今も演劇関係の仕事をしているので、演劇や芸能に関する言葉には愛着を持っています。
四〜五年前から「日本語ブーム」になって、何気なく使ってきた言葉が改めて注目されていますが、実は辞書の記述に不満がありましてね。たとえば「歌舞伎十八番(おはこ)」という言葉の記述も正確ではなかったんです。
芝居を勉強している者にとっては常識的なことであっても、国語学者にはよく分からない部分があるのでしょう。そういう時は演劇関係者の知恵を借りたりして、正確を期すべきだと思いました。
三年前に『歌舞伎ことばの辞典』(講談社)を出しましたが、私たちが日常的に使っている言葉の中に、歌舞伎だけでなく、他の芸能に由来する言葉がたくさんあるんですね。「調子がいい」とか「間が悪い」とか。
それ以前から北海道新聞に「芸能語源辞典」を七十五回、二年がかりで連載したことがあり、そのあと、歌舞伎座の雑誌に二年ほど連載しましたので、それらを熟考、整理しながら、今回『ことばの花道』にまとめたわけなんです。
「間違い」「間抜け」も芸能語
この本では歌舞伎に由来する日常語だけでなく、日本の芸能全般に由来する日常語を紹介してあります。その一つに「間抜け」「間違い」などという言葉があります。古来、日本の芸能は「間」を大切にしてきました。その証拠に「間」に関係する言葉で「間に合わない」「間がいい」「間が持てない」などたくさんあります。
「間」というのは本来「空間」を意味しています。時間的な「空間」と場所的な「空間」がありますね。日本の芸能は、時間の「間」を巧みに使って、観客を芸能の世界へと導いていきます。西洋の芸能には最近まで「間」という概念がなかったと思いますが、日本の場合は「間」が重視されてきました。
日本の芸能では間のとり方が的確であることを「間が良い」「間が合う」、的確ではないことを「間が悪い」「間が合わない」、まったく的確ではないことを「間が違う」とか「間が抜ける」と言います。「間抜けな奴」の由来も、そのへんから来ています。
もともと私は「物書き」になりたくて、今で言うフリーターのように転々とアルバイトしながらメシを食ってたんですが、「これではいけない」と山梨の田舎から東京に出てきたのが二十四歳の時、一九六八年でした。
小さな業界新聞社に就職し、記者をしながら「ノンフィクション(記録文学)を書いてみようかな」と、いろんな文学講座などで勉強したり、文学サークルや芝居のサークルに入ったりしていました。
そんな時に前進座が「新聞を作れる人」を募集していることを知り、ノンフィクションのタネになるかも知れないと入ったんです。初めから芝居のプロになろうという意識はなかったんですが、そのうち宣伝部長にさせられて四十一歳まで勤めていました。
前進座でカルチャーショックを
僕はカルチャーショックを三回受けています。最初は上京した時。田舎はうるさいくらい干渉しますが、東京はどこかヨソヨソしくて「大都会というのは、こういうものなのか」と。これが一回目のカルチャーショック。前進座に入った時は別な意味でのカルチャーショックを受けました。
座員はそれぞれが独立独歩というのか、他人のことをあまり考えない人たちなんですね。あとで「なるほどプロというのは、こういうものなのか」と分かりましたが、プロ野球のチームと似てるんですよ。以前、川上監督が書いていたと思いますが「プロの選手は試合に勝つために一生懸命やるけれど、普段は足の引っ張り合いだ」と。
芝居の場合もキャスティングされないと自分の出番がありません。でも逆に言うと、単純なんです。考えていることは皆同じですから。その方が僕の性格に合っていたのか、気がついたら十五年も長居しちゃった(笑い)。
前進座で一番印象に残っているのは中村翫右衛門さんと先代の河原崎国太郎さんですね。二人とも新聞や雑誌からのインタビューは一度も断ったことがなかったですよ。いくら体調が悪くても、何時間も前から準備して待っていました。
翫右衛門さんはファンを大事にする人でしたから、「御社日(おしゃび)」といって、記者や演劇関係者を招待する日には芝居をたっぷり演(や)るんです。逆に、旅興行の時など列車の時刻に合わせるため「十五分くらい上演時間を縮めてほしい」と伝えると、台本の一部もカットせずに十五分早めに終わったというエピソードがあります。上演時間を延ばすのも縮めるのも自由自在にできた人でした。
各地に残る農村歌舞伎は
正確には「地芝居」と言うんですが、各地に伝わる歌舞伎の保存会が全国に百数十できています。関東で有名なのが埼玉県秩父の小鹿野町に残っている農村歌舞伎ですね。僕は出身が田舎の人間ですから、取材に行くと現地の人たちと“波長”が合うんです。農閑期のお祭りの時に神社の境内に舞台を作って上演するんですが、小鹿野町では十二月中旬の寒い季節でして、たき火に当たりながら観劇しました。
そもそも「芝居」という言葉は、芝(草)の上に座って観劇したことから来ています。屋根が付いているのは舞台だけです。屋根付きの「全蓋(ぜんがい)式劇場」になったのは、ずうっと後のことです。幕府が建築を許可しなかったんですね。
農村に歌舞伎が伝わったのは、江戸や大坂の小屋が火事で焼けたりして、役者さんたちが地方興行に出かけていって、その土地の人に教えたのが起源です。
当時の豪農の中には「地方の文化人」がいて、松尾芭蕉のような俳人や絵描きを招いたり、村人たちの楽しみのために歌舞伎の一座を呼んだりした「スポンサーシップ」のある金持ちがいたんですね。今の金持ちは金儲けだけ熱心のようですけど(笑い)。
今も各地に舞台だけ屋根の付いた芝居小屋が残っています。関東では群馬の赤城村にも文部科学省が助成金を出して修理した小屋があります。山形県酒田市の黒森は雪の中での芝居が知られています。栃木の烏山町は街頭での踊りが有名です。盛んなのは岐阜や愛知ですが、東海や西日本にはあまり行ってませんので、今後調べてみたいと思っています。いずれにしても各地に保存会が百数十もあるということは、それだけ農村に伝わる農民の文化を大事にしたいという熱意の表れだと思いますね。
(聞き手・角張 英吉)
(写 真・満川 暁代)
(新聞「農民」2003.7.7付)
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