「農民」記事データベース20030519-586-08

インタビュー

米作りをやめたら環境も文化も失う


 「水田はダムである」と訴え続ける

       富山 和子さん

〔プロフィール〕 富山和子(とみやま かずこ) 評論家、立正大学教授、日本福祉大学客員教授。
 一九三三年、群馬県に生まれる。早稲田大学文学部卒業。自然環境保全審議会委員、中央公害対策審議会委員、林政審議会委員、環境庁「日本名水百選」選定委員、食料・農業・農村基本問題調査会委員など歴任。富山和子水の文化研究所代表。
 主な著書
『水と緑と土』『日本の米』(以上、中公新書)、『水の文化史』『日本再発見、水の旅』(以上、文芸春秋)、『環境問題とは何か』(PHP新書)、『川は生きている』『道は生きている』『森は生きている』『お米は生きている』『水と緑の国、日本』(以上、講談社)など。『水と緑と土』は環境問題のバイブルといわれ、四半世紀を超えるロングセラー。


 「二十一世紀は環境の世紀。そして二十一世紀の資源は水と土」と言い続けてきた富山和子さん。水問題を森林・林業問題にまで深め、また「水田はダム」であると発表した先駆者として知られています。半生をかけて取り組んできたキャンペーン、「富山和子がつくる日本のカレンダー 水田は文化と環境を守る」は、すでに国際ブランドです。

 今、政府は「米政策改革大綱」で日本農業の根幹である米つぶしを進めています。お米や水田の重要さを訴えている富山さんに話を聞きました。

(編集部・西村正昭)


 農民は土の形成者

 「農民は土の形成者である」と、三十年にわたって言ってきました。「二十一世紀の資源は水と土だ」とも。最近また『環境問題とは何か』で書きました。

 土は究極の資源です。地球が始まる時には土はありませんでした。海から陸地にはい上がってきた生物が作ってきたのが土です。

 水を作り出すのは土壌であり、汚物を処理するのも土壌。その土壌の形成者が森林です。

 日本列島では、土はただ放っておいて天からもらったというものではありません。アジアモンスーン地帯にある日本の国土は急峻で、雨が降れば土石流となって土を洗い流してしまいます。しかも火山国で、そのうえ川も氾濫する。利用する土地を確保しようと思えば、水を治め、森林を守らざるを得なかったのです。そのためには祖先たちが、ある時には血を流して命がけで作ってきた。つまり日本の土は労働の産物であり、歴史の産物です。いいかえれば、今日の日本列島は、人間が手をかけてかろうじて持ちこたえてきたのです。それが今は手抜き列島になっています。

 土壌の担い手がいなくなることは深刻です。だから山村の過疎、農業の先行き不安は、民族の存亡にかかわる深刻な問題だと、私は訴えているのです。

 先進資本主義国は自国の農業を手厚く保護していますが、日本は食糧輸入大国です。地球環境問題からみれば、食糧輸入は他国の土壌を略奪することになります。

 世界に誇れる「木を植える文化」

 私は「日本は木を植える文化の国」と名づけました。日本は木を伐っては植え、緑を絶やさなかった国です。

 古代文明は、肥沃だった土壌を食いつくして消滅するか、新天地を求めて移動しました。しかし、高度に発達した文明国で足元の土をつぶさずに一万年以上にわたって文化を築いてきたのは日本だけです。日本は縄文時代から連綿として土をつぶさずにやってきた。私は「世界の奇跡だ」といっています。

 一九八二年、縄文の宝庫といわれる福井県三方町の鳥浜貝塚を訪ねました。この遺跡は輝くような木の文化があり、ちょうど出土したばかりの丸木船と数々の木工品がありました。丸木船は約六千五百年前の最古のもので材料はスギでした。日本人とスギの深い関係を考えさせられました。さらに、木の実をとるためにクリやクルミの森林を縄文人は育てていたのですね。そうした森林とのつきあいによって、本格的な「木を植える文化」が育ち始めたのです。

 本格化するのは、稲作を始めたときからです。木を植える文化を支えてきた柱は、稲作です。日本の文化は、お祭りをはじめすべて米の文化ですね。

 地球環境を守るための合言葉は何かと言ったら、「持続可能な開発」です。でも考えてみればそんなこと、日本の農民は当たり前のごとく、つい最近までやっていました。日本の農民は世界のお手本なんです。お手本を守れないで地球が守れるでしょうか。平成九年(一九九七年)、アメリカのハーバード大学に招かれ、講演したときに、私は世界の学者にそう言いました。

 世界一豊かな土壌と地球守るエチケット

 地球の環境問題を考える場合、日本の稲作はお手本です。

 『お米は生きている』という子ども向けの本に書きました。「自分の国の食料は可能な限り、自分の国の土でまかなう、これが地球を守るエチケットです」と。他国の土壌を略奪しないわけです。お互いの国の土壌、陸地を守るということは、そういうことですね。それぞれの土地で可能な限り、食料をまかなうのがエチケットです。日本の先祖たちは、そのエチケットを守ってきました。

 日本の先祖は、世界一豊かな土壌を作ってきました。十九世紀のヨーロッパでは人間一人を養うのに一・五ヘクタールの農地が必要でしたが、日本では江戸時代に一・五ヘクタールで十五人を養いました。いかに豊饒な国土を作り上げてきたかということを示していますね。

 一七〇〇年頃、日本の人口は約二千九百万人でした。ある試算によれば、フランス二千二百万人、ロシア二千万人、イタリア・ドイツ千三百万人で、オランダ二百万人、アメリカは百万人でした。その時代に日本は、中国、インドを除けば世界一の人口を擁していたのです。七割が森林を占める国土でも、こんなに多い人口を養えたのは稲作があったからです。

 水田稲作は、同じ水田で繰り返し作れることは、みなさんご存じですね。水は栄養分の役割を果たしているだけではありません。「木を植える文化」、森林を育てさせたのも、水の問題があったからです。西洋のように畑作中心の大陸では、稲作のように大量の水は必要ありません。急峻な国土の日本では、水田を確保するには水を治め、森林を守らざるを得なかったのです。

 林と農は一体です。だから、その林がおかしくなっていることを、みなさんも考えてほしいのです。

 林業は五十年、百年という長い年月をかけなければなりません。ほったらかして、気が付いたときにはもう手遅れということになってしまいます。今、日本の森林は、人目にふれない奥地ほど荒廃しています。

 日航機が墜落した山間地・群馬県上野村長の黒澤丈夫さんとは何十年来のつきあいをしています。過疎地の中で村の活性化をめざして積極的に取り組んでおられます。山村の過疎は労働力の過疎だけではないのです。若い人は出てしまいますから頭脳、リーダーがいなくなるという深刻な事態です。

 過疎地域から離農して外へ出て行くときに、田んぼに木を植えて出て行く。セイタカアワダチソウをはやしたまま外へは出て行かない。これが日本人の心なのですね。しかしいま、小学校の教科書から「林業」が削られてしまい、教えていない。緑を守れとか自然保護とかいうけれど、どれほどの人がそのことを問題にしているでしょう。

 児童書で農業の大事さを訴える

 『お米は生きている』を読んで欲しいですね。大きな賞をいただき課題図書にもなった本で、国語の教科書にものっています。大人こそ読んでいただきたい。農業の本当の大事さがわかっていただけると思います。

 子ども向けの本ですが、農業の大事さがよくわかってもらえると思います。

  『森は生きている』や『川は生きている』がたくさん売れ、大人にも読まれ、世論を変えることもできることを知りました。なんとしてもお米の児童書を書こうと思い、毎朝机に向かって十四年もかかり、仕上げたのがこの本です。

 子どもの本はむつかしい。「日本の川は急流です」とは書けない。「急流」が使えないのです。「流れが早い」だけではわからない。なぜ早いのかがわからない。私は一生懸命に考えました。ただ地形が急だけではない。雨の降り方とか、いろいろあります。それを全部言わなければなりません。体から言葉を絞り出すようにして書きました。おかげでどの本もロングセラーです。日本中の子どもたちがその文章を学んで育っています。

 「米の文化の偉大さ」を痛感したのは、『水の文化史』を書いたときです。淀川篇(琵琶湖・この大いなる湖)、利根川篇(日本の水問題)、木曾川篇(自然保護と林業)、筑後川篇(水を作りだした歴史)からなっています。日本中のことを書いています。筑後川篇は全体の総集編です。私の理論をまとめながら、整理し書き上げました。

 水問題に取り組むきっかけ

 「なぜ水問題に取り組んだの?」と多くの方から聞かれますので、『日本再発見 水の旅』の「あとがき」に書きました。

 初めて水についての文章を書いたのは、昭和四十三(一九六八)年の雑誌『中央公論』です。当時、講談社の編集者生活をやめ、評論家として都市問題に取り組み始め、住宅公団論や道路公団論を連載していました。ちょうどその頃、東京都の水道料金の値上げ問題が持ち上がっていたので、水について、水の政治、経済、社会性について書かされることになったのです。

 にわか勉強で未熟な論文でした。水の世界の難解さ、奥深さに、金輪際、水問題には手を出さないと思ったのです。ところが、水利科学研究所の武藤博忠さんから論文を雑誌『水利科学』に転載させてほしいという依頼がありました。これがきっかけで、水利科学研究所の学術調査にも参加するようになり、水の世界に入っていったのです。

 外国でも好評な米カレンダー

 「日本の米カレンダー」を制作してから来年は十五年目になります。来年使う十二枚の写真がやっと決まったところです。

 写真集めに半年かかります。それから手元に写真をおいて、データをとる。写真の現場がいまでもあるかどうか、歴史がどうなっているかなど、地元の町村に問い合わせ、確認します。そうして集めた写真やデータを見て、熟するのを待って書くわけです。書き終わってから、英訳のために翻訳家にまわします。このように大変な時間と労力がかかります。ところが、カレンダーは書籍と違って図書館では保存しません。だから二十一世紀の最初の版などは(二〇〇一年版)、百年後まで自宅で永久保存する、という読者もいらっしゃいます。

 カレンダーで、農業の大切な意味がわかったという人がどれほどいることか。棚田ブームをつくったのは、カレンダーです。カレンダーを支えてくれた人ですよ。作者の私には、私の理論や思想がどんなふうに広がり助長してきたかがわかります。だんだん輪が広がっていったのです。

 農民連のみなさん、消費者とともに米や農業を守るために頑張ってください。私は新聞「農民」の長い読者です。みなさんの運動の一翼を担っていければと思っています。


 富山さんは、今年五月の「日本の米カレンダー」の写真(上〈写真はありません〉)説明を左のように書いています。

上場台地
海に面した棚田地帯は
どこも水の乏しい台地
玄界灘を望むこの上場台地も
溜池と雨乞いの里
女も子供も一家総出で
水を担いで山道を登り
一滴を我が血のごとく
大切に使いきった日々がある
漸く今、ポンプで川水を
上げられるようになったからには
どうか減反にも輸入作物にもめげず
この美しい風景を守り抜いてと
祈るような思いである

   佐賀県肥前町(ひぜんちょう)(撮影:田北圭一(たきたけいいち))

(新聞「農民」2003.5.19付)
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2003年5月

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