農の考古学(26)(最終回)稲作の歴史をたどる
農の行方と課題これまで日本列島の農耕の歴史をたどってきました。そこでは、私たちの先人が、いかに大地にはたらきかけ、苦心して農業生産を行ってきたのか、をみてきました。 仙台市の富沢遺跡からは、現代〜弥生中期へと重層的につながる水田跡がみつかっています。何度も洪水に遭い、水田を流されて、また水田を造る、という苦闘の跡を示したものです。こうした痕跡は、岡山市の南方釜田遺跡など、各地にみることができます。 日本で稲作が定着したのは、今から二千数百年前の弥生時代でした。農耕社会の成立・進展とともに、人びとの生活様式や文化が形成され、多彩で豊かなものとなっていきました。「米離れ」が喧伝される現代社会においても、私たちの生活は米・稲作ぬきには語れません。 水田稲作は、水源かん養や環境保全など、農業以外にも、すぐれた機能を持っています。 その稲作は今、試練の中にあります。減反面積は百万ヘクタールを越え、その一方でWTO協定によるミニマムアクセス米の外国米輸入は七十七万トン(二〇〇一年)に達しています。自国の農民に減反を強いて、外国米輸入を続ける自民・公明・保守党連立の小泉政権は、市場原理で米価をさらに引き下げ、転作奨励金の廃止など、農業破壊の「米改革」をねらっています。 農業は、土や水、風や太陽の自然を相手に生命をはぐくむ産業です。日本の農民は、自然の地形に順応して棚田を開き、里山の恵みを取り入れて農業を営んできました。 自然を相手に生命を育てる農業は、本来、市場原理や効率中心のやり方になじまないものです。この路線の中で、日本農業は矛盾と危機を深めています。 二十一世紀は、効率主義の方向ではなく食料、環境、健康といった課題で国民的合意を形成し、大地に根ざした草の根の運動で、人間的な生産活動と生活、文化を創造する時代です。 歴史に学び、新しい歴史をつくる試みだと思います。 (おわり)
(新聞「農民」2002.12.2付)
|
[2002年12月]
農民運動全国連合会(略称:農民連)
本サイト掲載の記事、写真等の無断転載を禁じます。
〒173-0025
東京都板橋区熊野町47-11
社医研センター2階
TEL (03)5966-2224
Copyright(c)1998-2002, 農民運動全国連合会