「農民」記事データベース20021202-565-08

「サイトウ・キネン・オーケストラ」を聴いて

関連/白鳥が初飛来


 九月、松本市に今年もまたサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)がやってきた。斎藤秀雄という一人の音楽教師を記念して、世界の第一線で活躍している百人もの教え子たちが集まってオーケストラとフェスティバルをやるというのは、世界でも珍しいという。

 実は、私はマスコミの「天才(英才)教育」という報道を信じ、幼時から俊才を育成する選別教育者だと思ってあまり好きではなく、関心を持たなかった。たまたま娘に招待され、夫婦で一晩はオペラを、次の週にはオーケストラを聴くことができた。幸いにもこれを聴く直前に『喜遊曲、鳴りやまず』(中丸美絵著・新潮社)を読むことができて、自分の無知を知った。

 実は全く逆だった

 それまで、音楽学校は教師や独奏家を育てることに主眼を置いてきたがサイトウは「音楽とは豊かな音楽性を身につけ、オーケストラで働けるよう訓練、勉強させること」「そのためには音楽は幼時から教えるのが最低条件」と主張し、同志とともに桐朋学園に音楽部をつくった。結果として世界のコンクールに入賞する演奏家を輩出するようになったのであった(今年からウィーン国立歌劇場の音楽監督になった小沢征爾はその一期生)。

 「9・11」犠牲者追悼のバッハ「チェロ無伴奏組曲」

 九月十一日の夜は「9・11の追悼」として、特別参加の巨匠ロストロポーヴィチのバッハ「チェロ無伴奏組曲」で始まった。小沢は指揮台に腰をおろし、楽員も頭をたれて聴き入った。葬送曲のような演奏に、終わっても拍手一つ出ない満場の追悼となった。私は平和を願って国連で演奏したカザルスを思った。

 つづいてはR・シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」だが、一チェロ奏者のロストロポーヴィチは、あたかも協奏曲のソリストのように指揮者の横で演奏した。一連の所作はロストロポーヴィチが年下の小沢を立て、小沢は老巨匠の前に膝を折らんばかりの遇し方が印象的だった。

 こういう大曲を巨匠と一緒にアンサンブルができる力と自信がどのようにして生まれたのか、想いはやはりサイトウとSKOに回帰した。

 サイトウの指揮と「セロ弾きのゴーシュ」

 サイトウの練習は非常に厳しく、ときには途中で自分の眼鏡や腕時計を床に叩きつけて怒ったという。彼を知る人で宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』を読んだ人たちは「ゴーシュを怒鳴りつけた楽長のモデルは斎藤先生しかない」と語ったという。事実、賢治が上京して練習場の近くに泊まり、チェロに凝っていた時期と一致する。

 「いい格好するのに音楽を利用するな」「音楽と真剣に対峙しろ」と言い続けたという。

 死の一カ月足らず前、サイトウは長野県志賀高原で合宿練習に臨んだ。「僕の腕はもう動かない。指がこれしか動かないんだよ」と言って、モーツアルト「ディヴェルトメントK316」を指揮したときは、楽員は涙で楽器をぬらしながら弾いたと言う。だから、今でもアンコールでその第二楽章をやるときは、小沢は涙を流して振るという。厳しさだけのサイトウではなかったのだ。

 小沢がSKOの練習でよく「斎藤先生はこういうところをこんな風に…と言われたよねぇ」というほど、サイトウはアンサンブルや音の基本について教え込んだからこそ、集まればすぐに仕上がるのだという。

 松本に根づくサイトウ・キネンフェスティバル

 SKOは初めの頃、ウィーン、ベルリン、ロンドン、フランクフルトなどの楽旅で絶賛を博し、カーネギーホールにも招かれるほどの評価を受けたが、日本では幻のオケに過ぎなかった。

 やがて松本市で受け入れて今年で十一回になる。千人の合唱でベートーベンの「第九」ができたり、会場のボランティアが多いのは、フェスティバル(SKF)が根づいてきたことを思わせた。

 芸術の秋と実りの秋、九月はサイトウと賢治のなくなった月でもある。立ち去りがたい夕べであった。

(小林節夫)


白鳥が初飛来

 新潟県水原町の瓢湖に白鳥が十月十日に初飛来し、その後、飛来数も増え、十一月六日現在、約四千羽となっています。荒天候が続き、なかなかチャンスに恵まれずようやく十一月十日の午後、束の間の晴れ間を見て、瓢湖付近の水田でシャッターを切りました。
(新潟県連 松井三男)

(新聞「農民」2002.12.2付)
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2002年12月

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