「再生プラン」と農地制度「改革」―(3)――なにが問題なのか―
農地改革、民主的な農政と農地制度駒沢大学名誉教授 石井 啓雄戦後改革の中での農地改革二十一世紀に入って二年目が終わろうとしている今年は、第二次大戦の終結からは五十七年になります。戦前の国民の無権利や農村における地主制の支配と農民の暮らしの貧しさを体験的に知る人は、当然のことながらごく少数になっています。 そればかりか、米軍の占領のもとで、財閥解体などの経済領域だけでなく、天皇制、議会制度、軍事、教育、労働、家族制度などを含めて万般にわたって行われた「戦後改革」の内容と意義についての理解も、国民の意識の間で風化しつつあります。沖縄の強力な米軍基地の存在も、国際的にもきわだつ日本政治の対米従属傾向も、一九六〇年代から八〇年代に進んだ高度経済成長も、現代日本における財界の強力な発言力も、改革を要する政・官・財の癒着構造も、それなしにはなかったはずなのにです。 農業・農村の問題についても、ことは同様です。すでに農民でさえ、自分の家が戦前に手作り地主だったのか、自作だったのか、小作だったのか、よくわからない人が増えています。それはそれで民主主義の発展・定着として大変に結構なことなのですが、しかし、農地改革とその結果としての農民的土地所有の成立、家族農業の基盤の確立の、日本社会全体のなかでの歴史的意義まで曖昧にしてはなりません。 戦後農地改革の結果をうけて一九五二年に制定された農地法と、それに密接に関連して制定された諸制度一九五二年改正食糧管理法、農協法、農業委員会法、土地改良法、その他農産物価格関係諸制度などなしに、戦後農村の民主主義も、商品生産の発展も、基盤整備や機械化の進展も、農家子弟多数の中・高等教育への進出も、兼業収入の増加を含めての農家経済の改善も、みんななかったはずです。 いま「改革」の名によって、それらすべての制度のいい面の改廃が進められていることが、今日の農業と農村の危機的困難の主な原因なのですから、私たちはそれらすべてのいい面の継承発展、そしてその改善をめざすことによって、未来の展望を切り開くようにすることが必要です。 そういう意味から、農地改革の成果と戦後農地制度の基本的な重要点について述べましょう。
戦後農地制度の基本点――自作農主義・耕作者主義――農地改革には未墾地の解放も含まれていましたが、基本的には農地の所有と耕作権に関する改革でしたから、農家の耕作規模には大きな変動を与えませんでした。そのことが後に構造「改善」問題を呼び起こす(このことについては後述)のですが、しかし農地改革の意義は決定的でした。 在村一ヘクタール(都府県平均)以内を除くすべての小作地を、国が戦後インフレ発生前の収益還元地価で強制買収し、これを小作農などに解放したのです。その規模は約二百万ヘクタール(小作地総面積の約五分の四、農地総面積の約三分の一)に達しました。そしてこのことによって半封建的寄生地主制は解体したのです。 この農地改革の成果を維持する目的で一九五二年に制定されたのが農地法ですが、制定時の同法は(未墾地部分は省略)、農地の権利移動、転用、小作地所有、賃貸借の解約等、小作料などをきびしく統制し、農地改革で生まれた自作農を維持することと、残された小作地の自作地化を促したので、「自作農主義」とよばれました。 同法の核心部分は第三条にあって、農地の権利移動(売買、賃貸借など)のすべてに行政庁の許可が必要としてきました。当初法は農地の所有面積に上・下限を設け、労働力の雇用なども制限して、家族による自作を義務づけたのでした。一般に関心の高い転用規制(第四、五条)も制度論としてはこの三条統制を補完するものです。 その後、農地法は、一九六二年、七〇年など何回もの改正経過をたどり、農業生産法人とか農用地利用増進(利用集積)などの制度や農振法をその中に、あるいはその傍らに生み出してきましたが、とくに一九七〇年の農地法改正は大きく、経済成長の過程で強まった兼業化と規模拡大の動きのなかで発生する労働力調整的な賃貸借をさらに促進すべく、賃貸借規制を緩和したのです。 このことから自作農主義とはいえなくなったのですが、しかし自ら耕作する者だけに権利取得を認めるという原則はまったく不変で、したがって発展的に(自然人)耕作者主義になったといえるわけです。この一九六二年以降二〇〇〇年までの制度展開の主要点については、また後で述べます。 (つづく)
(新聞「農民」2002.12.2付)
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[2002年12月]
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