農の考古学(25)稲作の歴史をたどる
江戸時代の新田開発十七世紀初頭からの徳川幕府と諸大名による幕藩体制の政治は、十九世紀後半まで二百六十年余、続きました。米が経済の中心の江戸時代には、新田開発が各地ですすめられました。 新田開発は、幕府・藩の年貢増徴と、中世以来の隷属的農民が小農自立を図る道でした。 寛文年間(一六六一〜七三年)をみても、町人請負いの新田開発は、千葉県の椿海干拓、山梨県の徳嶋堰など数多くあります。友野与右衛門らが請負人になり、箱根外輪山にトンネルを開削して芦ノ湖の水を静岡側の黄瀬川に流した、箱根用水の話は有名です。 箱根用水開削は、与右衛門らが企画し、資金を出して献身的に行動した結果、難工事が完成。深良村(裾野市)や下土狩村(長泉町)など黄瀬川流域の農民は水田を開くことができた、といわれてきました。だが、これは事実と異なります。 箱根用水の真相を明らかにしたのは、裾野市在住の歴史家、佐藤隆氏でした。佐藤氏は、箱根用水に関する多数の資料を発掘し、『箱根用水史』(一九七九年)を発表。用水工事は幕府と小田原藩が発注し、与右衛門らは、これを請け負って工事を完成させたこと、工事資金、九千七百両のうち六千両が幕府貸し付け金であること、用水完成後、与右衛門らは農民から用水使用料を取り立てたが、新田計画の誤算で挫折し撤退した、とする新事実を示しました。 「黄瀬川流域では昔から水田がつくられ、この川が乱流川だった跡の周辺では古墳時代の生活痕跡もみつかっています。箱根用水は、黄瀬川流域の水不足の村を潤し、とり残された畑地を水田化するための用水でした。水田は畑地の二・五〜三倍の生産高になるため、畑地の水田化は農民の強い要望でした。幕府、小田原藩も、年貢増収となるため、これを推奨しました」と説明する佐藤氏。 近世前期の町人請負い新田の多くは失敗します。用水路の保守・管理の責任は請負人にある、とされたため、この負担に耐えられず撤退していったのです。 (つづく)
(新聞「農民」2002.11.25付)
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[2002年11月]
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