農の考古学(24)稲作の歴史をたどる
村を守った農民の力中世社会には、アジール(避難所)の機能を持った無縁・公界(くがい)の空間が存在しました。ここに逃げ込めば公権力も介入できなかったといいます。 戦国大名の越前朝倉氏の城下町、一乗谷にも阿波賀という無縁・公界があり、そこの含蔵寺は公界所でした。発掘調査によって、朝倉館や町屋の遺構、阿波賀をふくむ城戸の外の一帯の様子が明らかになりました。 しかし、戦乱時には公界所も安全ではなく、含蔵寺も一五七三年(天正元年)の朝倉氏滅亡時に織田軍の襲撃で破壊されました。 戦乱が続いた戦国時代に農民は、どのようにして村の平和と生産の場を守ったのでしょうか。 戦国時代の領主・農民関係を「村から領主をみる」という視点でとらえた、帝京大学の藤木久志教授は、「戦国時代には、農民も村を守る城をもっていた」といいます。映画『七人の侍』(黒澤明監督・一九五四年)のように、農民は実力で村を守った、というのです。 藤木氏は、中世の文書に、「山篭り」とか「小屋上り」といった記述があることに注目しました。著書の『戦国の村を行く』でも、和泉国日根荘(大阪府泉佐野市)の人びとの生活ぶりを記した九条政基の日記に「地下人(村人)ことごとく邪儀(反抗)を仕り、山小屋へ入る」の記述があると紹介しています。 「村が戦場になった場合、農民は戦禍を避けるため、さまざまな避難行動を取りました。敵軍に金を払って安全保障を獲得する一方、実力で村を防衛したのです。『山篭り』や『小屋上り』は、農民が築いた『村の城』だと思います」 中世城郭研究会の八巻孝夫氏も、城郭調査では領主の城とは考えられない、小さな城跡が数多くあるといいます。 「戦場の山篭り・山小屋上りの遺構を考古学で検証する作業は、ねばり強い努力と工夫が必要でしょうが、ぜひすすめてほしい」。藤木氏は、考古学による「農民の城」の解明に期待します。 (つづく)
(新聞「農民」2002.11.18付)
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[2002年11月]
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