農の考古学(23)稲作の歴史をたどる
中世の風景――棚田山の斜面を階段状の水田にした棚田は、「日本の原風景」です。 日本で最古の棚田遺構とされるのは、徳島県三好町の大柿遺跡の水田跡です。発掘調査報告書『大柿遺跡』(三好町教育委員会・一九九八年)等によると、吉野川の微高地でみつかった水田跡(約二千二百年前の弥生前期末〜中期初頭)は、五段の棚田状になっていました。田の幅は二〜四メートルで、段差は約二十センチメートル。水口を通して上から水を流していたようです。 しかし、本格的な棚田の出現は中世に入ってからでした。十一世紀後半以降の大開墾時代の耕地拡大のなかで、各地に棚田がつくられます。 和歌山県桃山町には、「棚田発祥の地」があります。桃山町は和歌山市の東、十数キロメートルの紀ノ川南岸に開けた町。平安時代末期から高野山領の荘園、紀伊国荒川荘があったところです。 早稲田大学の海老澤衷教授(棚田学会理事)は、「棚田発祥の地」を探す手がかりとして、応永十三年(一四〇六年)に、快全という僧が、荒川荘の田畠について高野山に報告した「僧快全學道衆竪義料田注進状」や古地図類を示します。 「注進状」は、荒川荘の場所、田畠の面積、年貢の有無を記述し、山崎という場所について「一反坪は上に池あり、池の水を引く也、根本は糯田(もちごめだ)と名づく、今は山田にて棚に似たる故に、たな田と云う」としています。 「この山崎が命名という観点からすれば棚田のルーツとなります。山間部ではなく平野部に近い場所だというのが重要です。善田の地名もありますが、善田は棚田の別名です。やはり荒川荘は棚田の本場といえるでしょう」と話す海老澤氏。 善田の棚田は今もありますが、山崎の棚田は埋められて姿を消しました。先人が築いた棚田は自然と共生する、すばらしい生産のシステムです。日本の稲作、環境、原風景を守るため保全したいものです。 (つづく)
(新聞「農民」2002.11.11付)
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[2002年11月]
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