「農民」記事データベース20021104-561-22

農の考古学(22)

稲作の歴史をたどる


二毛作の始まり

 同じ耕地で、年二回、別々の作物を栽培する二毛作が始まったのは、いつころでしょうか。平安時代中期には、畠地での二毛作を示す史料があり、鎌倉時代中期には、水田裏作の麦に課税することを禁止する幕府の法令もみられます。

 東京学芸大学の木村茂光教授は、水田二毛作の実現には、水田の乾田化と用排水の管理、冬作物栽培の定着が重要な条件だとし、「古代における冬麦作の定着、平安中期の畠作二毛作の展開が水田二毛作の前提条件をなした」といいます。

 考古学での二毛作の存在は証明できたのでしょうか。兵庫県加古川市の美乃利遺跡では、十一世紀後半〜十三世紀前半の耕地跡で二毛作をしていたとみられる遺構や、遺物がみつかりました。

 発掘調査報告書の『美乃利遺跡』(兵庫県教育委員会・一九九七年)は、(1)微高地からみつかった畝立ての幅は平均で一・五メートルと、他の約二倍。近世の農書『耕稼春秋』の大麦の記述からも、麦作の畝幅は広かったと推測される、(2)耕地跡からは炭化米や麦の種子が出土している、(3)畝の土壌が水田土壌である―などを挙げ、水田二毛作の可能性を述べています。

 さいたま川の博物館学芸員の岩田明広氏は、埼玉県本庄市の今井条里遺跡(十一世紀〜十三世紀)では、水田面を幾筋も耕作した遺構がある一方で、厚さ二〜三センチメートルの乾田による土壌化痕跡の断続的な累積がみられるとし、ひんぱんに水田と畠地の転換がなされた痕跡があるといいます。

 「水田でも長く連作すると稲の根に有害な硫化水素が生成します。この障害を避けるため耕地の転換がされたのでしょう。今井条里遺跡でも、二毛作の検証は可能性の段階です。水田二毛作を考古学で推測できるのは、今のところ十二〜十四世紀ころまででしょう」

 岩田さんは、二毛作研究では、稲や麦の根の生え方の調査、土壌分析の精度を上げることなど、土壌学や生態学の方法を考古学に応用する必要性について語ります。

(つづく)

(新聞「農民」2002.11.4付)
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2002年11月

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