「農民」記事データベース20021104-561-01

空間に“無限の世界”を描き出す


 パントマイミスト

     松井 朝子さん

〔プロフィール〕 1966年、東京生まれ。14歳で日本マイム研究所に入り、85年にフリー。89年2月、日本人ならではのオリジナルマイム『KIMONOマイム』を発表。90年6月、アメリカ公演、8月、写真集『詩 きものマイムの世界』(偕成社)出版。91年10月、石川県立能楽堂にて『KIMONOマイム葵上』を発表。94年、ドイツとイギリスへ海外公演。97年11月、NHKテレビ『夢を舞う 自分を舞う』出演。現在、日本各地へ自作の演目をもって公演をつづけている。


 小学生の頃は不登校児童、高校は入学して二週間で“自主退学”した少女が、パントマイムを天職として選び、観客を感動させる舞台に立つ。その“生い立ち”と将来への抱負を聞きました。

 一年に百回から百五十回の公演

 つい先日、兵庫県西宮市で公演して帰ってきたばかりです。三百人ほど入るホールで、保育士さんたちの研修会だったんですが、地域の保育園児たちが百人くらい一緒に見てくれました。

 子どもたちはいろんな空想世界をふくらませながら、じっと目をこらして見てくれました。パントマイムは演者の動きによって空間に豊かな世界が広がります。そして人間の喜びや怒り、悲しみなどが観客の心に訴えていきます。登場人物の描き出す人生の哀歓に共鳴するからでしょう。

 今年は七月に東京でも公演しましたが、地方公演が多くて、西宮の前は飛騨高山でした。以前は一年に百回から百五十回も公演していた時があり、アメリカやドイツ、イギリスなどへも出かけていきました。

 そのあと腎臓病になったこともあり、最近は少し控えています。「数をこなすより、一回一回を大事にしよう」と。体のこともありますけど、やはり舞台の中身を充実させることが大切ですから。

 初舞台は基地の街・沖縄市で

 私がプロになって最初の公演は沖縄市でした。基地の町で、反戦地主の方が中心になって呼んで下さったのです。基地の中に土地を持っている方が「基地反対とともに良い文化を育てていこう」と活動されていたんですね。

 その後、口コミで広がり、北海道の旭川や稚内などへも行きました。

 デビュー当時、私にはマネージャーやアシスタントがいませんでした。小さい会場ですと、舞台づくりから音響、照明など自分で何もかもやりました。ある地方で、部屋があるだけという感じの会場があって、音響装置はカラオケがあるだけ、幕もありませんでした。だから簡単な照明と幕と録音テープを持ち込むんです。

 地元の人たちに挨拶などしますから、おしゃれをしていきますが、会場に着いたらツナギの作業服をその上から着て、脚立に登って幕を張り照明をセッティングします。いよいよ開演時間が迫ってくるので、急いでメーキャップ。その間にもお客さんが会場に入ってきます。「あと一分」という感じで幕を開けたことが再々ありましたよ(笑い)。

 『KIMONOマイム』の誕生

 着物を身にまとって演技するパントマイムは、私が自分らしいものを創りたいと思った時に生まれたオリジナルです。私は中学生の頃から家族と一緒に能を見に行ったりして、日本文化に興味を持っていました。今でも歌舞伎を見に行くと、すごく感性を刺激される部分があるんです。

 自分がもともと持っている何かを掘り起こされるような刺激――「これは何だろう」と思いながら創っていったのが『KIMONOマイム』なんです。当然、能や歌舞伎の色づかいとか、感情表現や演技とか、似ている部分もあります。それは真似したわけではなく、日本人としての私の体から自然に出てきたものです。ですから海外公演の時も大きな拍手をいただきました。

 マイムというのは独特な舞台芸術で、こちらが演じたものを観客がイメージを広げてくれ、それを演者が感じて返していくという“微妙なコミュニケーション”で成り立っているんです。無言の中で、演者と観客がお互いに息づかいを感じながら舞台が進んでいきます。

 ですから日本や外国を問わず、観客から思っていた以上の反応があり、観客との一体感で舞台が終わった時は最高です。「生きているって素晴らしい!」と思い、これからも充実感が持てるような舞台を創りたいと願って続けてきました。

 小学校の頃は“不登校児童”の時も

 生まれは東京、育ったのは中野区で、小中高校は三鷹市の明星学園。生徒に点数をつけない自由な教育で注目されていた学校でした。ところが、先生によって“出来のいい生徒”と“出来の悪い生徒”を差別する人がいて、同じ教室の中に「猿山」と呼ぶ一角をつくったんです。勉強ができないと、そこへ行かされるぞという恐怖心を植えつけたのです。

 私が小学一年生の時です。最初はそれほどでもなかったのですが、そのうち学校へ行こうとするとお腹が痛くなって、不登校になりました。神経性の腹痛を「盲腸炎だ」と誤診され、病院で切開手術される羽目になりました。

 精神的には学校に行きたいんだけど、身体が拒否するという状態がズルズル続いて、小学四年くらいまで休みが多かったんです。やっと五年生の時に、明星らしい良い先生と出会えて、ちゃんと学校へ行かれるようになりました。当時はすごく痩せていて「鳥ガラ」とか言われていたこともありました(笑い)。

 それからは授業も面白くなり、人前で話したり、自己表現するのが不得意だったのが、体を動かして表現することが好きになりました。ちょうど中学一〜二年から三年の頃です。

 高校を二週間で“自主退学”しマイムの道へ

 ところが、これから高校へ入ろうとする時に、それまでなかった試験制度の導入によって、明星学園の教育方針を変えようという動きが出てきました。私たち生徒が反対闘争に立ち上がると、それを知った父母や卒業生OB、有志の先生方がバックアップして下さり、マスコミも注目して、ものすごい“流れ”になっていきました。

 でも学園側の切り崩しにあって、全員が試験を受けて高校へ入ることになりました。私は答案用紙を白紙で出しましたが「合格」し、きちんと書いた生徒が「不合格」となる意図的な“差別”を受けました。結局、私は高校入学二週間で“自主退学”して自分の生きる道を模索しました。

 その半年前、国立劇場で見たマルセル・マルソーのパントマイムの演技が、鮮烈な印象として心に残っていました。身体だけで、何もない空間に無限の世界を生み出し、人々と心を響き合わせたい……。

 十四歳で日本マイム研究所に入門し、十八歳で独立。これまで十八年間プロのマイミストの道を歩んできましたが、さらに上をめざして努力を重ねていきたいと思っています。

(聞き手)角張英吉
(写 真)関 次男

(新聞「農民」2002.11.4付)
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2002年11月

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