「農民」記事データベース20020701-545-20

農の考古学(13)

稲作の歴史をたどる


弥生水田の生産量は

 弥生時代の水田では、どのくらいの米がとれていたのでしょうか。

 登呂遺跡の発掘を指導した杉原壮介氏(元明治大学教授)は、弥生後期の登呂水田の推定生産量を算出しています。それによると、登呂の水田跡の総面積を約二万坪(六町六反六畝余)として、坪あたりの収量を一升と仮定、全体では二万升(二百石)の収量が想定できるとしました。一反(十アール)あたりの収量は四百五十キログラムになります。

 この試算について、乙益重隆氏(元國學院大学教授)は、江戸時代の農書『算方地方大成』では、上田の平均反収は一石五斗(二百二十五キログラム)であること、正倉院文書などの統計資料をもとに書かれた『奈良時代民政経済の数的研究』(沢田吾一著・一九二六年)によると、奈良時代の米反収は上田で八斗四升六合(約百二十七キログラム)、下田では五斗八合(約七十六キログラム)だとして、多すぎるとしました(キログラムの数値は玄米換算)。

 『奈良時代民政経済の数的研究』にある反収が妥当なものかを確かめるため、静岡大学農学部の佐藤洋一郎助教授らは、登呂遺跡の復元水田で古代農法による稲栽培実験を行い、二千年前の米の反収を推定しました。

 実験は、橿原考古学研究所の寺沢薫氏のグループも行ない、反収百十三キログラムの数値を出しました。佐藤グループの数値は二百六十キログラムで、双方の数値から推定反収を百九十キログラムとしました。

 実験で得られた推定反収の百九十キログラムは、時代の変遷のなかで、どう変化したのでしょうか。佐藤氏によると、弥生時代中期から二千年後の一八八七年(明治二十年)の平均米反収は約百八十キログラムです。

 「二千年間の米生産量はほぼ横ばいで、平均二百キログラムくらいです。これが農薬も化学肥料も使わず、環境にも負荷を与えない米の生産量といえるかもしれません。環境問題の解決からも考えさせられる数字です」と佐藤氏はいいました。

(つづく)

(新聞「農民」2002.7.1付)
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2002年7月

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