農の考古学(9)稲作の歴史をたどる
北部九州で水田稲作が始まったことは、農耕社会の到来を告げるものでした。当時の稲作の姿をみてみましょう。 福岡平野のほぼ中央にある板付遺跡(福岡市博多区)で、一九七七年・七八年に行われた発掘調査は、弥生時代の開始時期や、初期の水田稲作についての「定説」を変更させる新しい発見をもたらしました。 それまで縄文時代晩期の土器とされていた夜臼(ゆうす)式土器の時期の水田跡が見つかったのです。夜臼式土器は、土器面に貼り付けられた粘土帯に刻み目の文様がある縄文系の土器(刻目突帯文土器)です。 この発掘調査では、弥生時代初頭とされていた板付I式土器段階(紀元前三世紀)の水田跡と、その下の地層から刻目突帯文土器段階(紀元前四世紀)の水田跡が検出されました。 二つの段階の水田は、規模はちがいますが、構造は同じで潅漑用の幹線水路、水を貯める井堰、水田への取水と排水の施設、畦畔、支線水路が設けられていました。 諸手鍬、エブリなどの木製農耕具、石包丁(穂摘具)や、農耕具製作用の石斧(せきふ)類も出土。井堰の付近で水田祭祀(農耕の祈りと祭り)が行われていたことを示す大型の丹塗り壷も見つかりました。 こうした完成度の高い水田跡は、板付遺跡の南西二・五キロにある野多目遺跡、佐賀県唐津市の菜畑遺跡からも見つかりました。福岡市教育委員会・埋蔵文化財課の山崎純男課長が、福岡平野と、その西側の早良平野の弥生時代開始時期の遺跡の分布状況を調査したところ、その数は九十八カ所(九八年末現在)もありました。 山崎氏は「福岡平野や早良平野では、紀元前四世紀の段階に水田開発がほぼ終了した感があります。板付は乾田、菜畑は湿田ですが、弥生初期の水田は、そのいずれにも対応した完成されたものでした」といいます。 (つづく)
(新聞「農民」2002.5.27付)
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[2002年5月]
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