農の考古学(8)稲作の歴史をたどる
稲作受容の背景と要因日本列島に水田稲作が伝播した背景には、中国や朝鮮での戦乱で人びとの移動があり、その影響で日本列島に稲作文化を持った集団が渡来したといわれています。また、稲作受容の要因については、狩猟・漁撈・採集が高度に発達し、生活に余裕ができたことが稲作農耕を受け入れやすくした、とも説明されています。 それまでの自然界に依存した食料獲得を、農業による生産に変えたことは大変な出来事でした。縄文から弥生への変革を追究した考古学者の、岡本勇氏は『縄文と弥生』で「日本の歴史の上で、弥生時代はきわめて重要な位置を占めている。それは数千年、いな数万年の長きにわたる原始社会の歴史を大きくゆりうごかし、僅か数百年のあいだに階級社会成立の諸条件を整え、それへ向けての胎動を始めた」と記しています。 稲作農耕が伝播する前の縄文時代から、朝鮮半島と日本列島の間では、人びとの盛んな交流がありました。考古学の資料からも、縄文時代前期の土器が朝鮮半島の櫛目文土器とつながりがあることがわかっています。また、日本列島での稲作の広がりと関係がある遠賀川式土器(弥生前期の土器)が、朝鮮南部の無文土器に起源をもつことが指摘されています。 福岡市教育委員会・埋蔵文化財課の山崎純男課長は、水田稲作の渡来と受容では、玄界灘(西北九州)を舞台に活躍した漁撈民が関与し、大きな役割を果たしたことが考えられると述べます。 西北九州の沿岸からは、軸の部分と針の部分を組み合わせた大型の釣針や、鋸の歯のような刃をもつ石銛が出土しますが、これらの漁撈具は朝鮮南部からも出土しています。山崎氏は、この玄界灘の漁撈文化圏は縄文時代前期以降に形成されたと考えられるとし、「朝鮮半島南部と西北九州のあいだの長い交流が、稲作農耕をスムーズに受け入れ、定着させた背景とみることができる」といいます。 (つづく)
(新聞「農民」2002.5.13付)
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[2002年5月]
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