「農民」記事データベース20020506-537-17

長野・佐久

醤油作りでお世話になって

小林節夫


 小麦を煎り、豆を浸す

 「自分で醤油を」と思って、去年大豆を作り、秋には小麦を播きましたが、麦の収穫は夏、麹に使うのは来春、醤油を搾るのは来年十二月――そんなつもりでしたが、荻原徳雄さんに小麦十三キロを分けてもらい急きょ仕込むことができました。

 四月四日、平たい鉄鍋で二人で夕方まで煎り、イッパイご馳走になって帰りました。家ではカアチャンは夜なべに、浅い木箱で大豆を転がして選別し、水にほとばしました。

 大塚さんの麹室で

 麹を出すのは六日。場所は、桜が満開の臼田町の大塚献三さんの小屋。荻原さんは朝六時から大きな備え付けの鉄の釜で大豆を煮ていました。私の時には竃(かまど)と釜が熱くなっていたので、二時間で煮えました。

 隣の釜では佐久町の小林茂人さん。豆が煮えると、三和土(たたき)の土間の板の台にビニールシートを敷き、粉砕した小麦をひろげた上に豆を押しあけ、麹菌を播いて皆でかき混ぜます(写真〈写真はありません〉)。

 周りも底も隙間のある木箱に、濡らした布を敷き、混ぜた原料を入れて包み、麹室(こうじむろ)に積み上げます。火鉢の炭火で室の中はもう三十度です。

 できた! 麹菌の黄色い胞子が舞い上がる

 茂人さんが終わったのは午後三時すぎ、みんなでお釜をたわしで洗って解散しました。

 茂人さんは農作業で忙しいので、昼間の温度管理と箱の詰め替えは荻原さんがやり、夜は茂人さんが大塚さんの小屋の二階に泊まり込んで二時間おきに温度を管理してくれました。

 翌朝五時、室から出して、熟成させました。夕方、麹に少し触ると、まっ黄色な胞子が舞い上がりました。うまくできた!

 持ち帰って、味噌部屋の土間で大きな桶に塩十二キロを入れてかき混ぜたら、もう夜七時でした。

 簡単に麹が出来た陰に

 温度管理がうまくできたのも、麹室のおかげです。土壁の麹室は大塚さんのお父さんの辰起さんが作ったものだそうで、在りし日の温顔を思い浮かべました。麦の粉砕機、竃も鉄釜も電気、水道――みな大塚さんのもの。

 麦を煎る鍋と薪と炭は荻原さんのもの。薪は切って機械で割り、炭も自分で焼いたもの。目には見えなくてもずいぶん手間がかかったものばかりです。炭火だから石油のように温度が上がりっぱなしにならなくていいとのことです。

 施設や道具に途方もない時間と労力がかかっているとともに、仕事の細かいやり方や手順、炭を使う温度管理など、長い経験が山のように集積されている――“ほんまもん”、安全なものを作るには、気の遠くなるような手間ひまがかかっているのですね。

 醤油を搾るグループの鈴木さんが「醤油作りの共通経費二百円、麹菌二百五十八円を」と徴集。あまりの安さにあ然としました。

 こうして、私は何もせず、みんなに教えられ、助けられて、「難しい醤油の麹」を出すことができました。作ったのではなく、作ってもらったのです。

 本当の豊かさと集まる人間群像

 献三さんは有機農業二十数年のベテランです。奥さんの昌子さんは元佐久病院の看護婦さん。今は献三さんと有機農業の明け暮れです。

 豆を煎る合間にオバアチャン(献三さんのお母さん、ヤスさん)に会うことができました。

 ヤスさんは日に何度も平飼いの数十羽の鶏の面倒をみるのが仕事。腰が曲がって、老人車をついて四十メートルほど離れた鶏小屋へ通います。「オバアチャン、お幾つですか」と聞くと、「まだ九十一歳です」の返事。ヤスさんが小屋に入っていくと、鶏がぞろぞろとついて行きます。ときには腰が九十度に曲がったヤスさんの背中に鶏がとまることもあるそうです。

 「この鶏、どこから買ってきましたか」と聞くと、全部もらってきた廃鶏だとのこと。鶏は後から来たのをいじめるものですが、ここではそれがないようです。秕(しいな)や麩(ふすま)や米糠や野菜のくずなどがエサ。「卵、鶏に食べられませんか」と聞くと「食べたければ食べさせればいいですに…」とのこと。なんとなく良寛さまがそこにいるような気がしました。

 南北佐久の各地からここに来る有機農業の人々を見ていると、本当の豊かさとか、スローライフとか、純粋さなどが共通していて、「暮らしが有機農業だ」という感じで、その晩はいつまでも眠つかれませんでした。

(長野県佐久市)

(新聞「農民」2002.4.29・5.6付)
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2002年5月

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