朗読劇『この子たちの夏』から“誕生”した「ともゑ米」日色さんの「ともゑ米」は“知る人ぞ知る”銘柄米です。どんな経過で生まれたお米なのか――民藝公演『その人を知らず』の稽古の合間にお聞きしました。
やさしさの中に芯のある女性を演じる日色ともゑさんお米のネーミングは私です「ともゑ米」を作り始めて今年で七年目です。新潟なんでコシヒカリ。弥彦山の近く、岩室(いわむろ)温泉のある岩室村の田んぼです。今年は芝居と重なって行けないんですが、田植えも毎年続けているんですよ。お米が一反歩で、野菜畑も一反歩あって、何十種類という野菜を春、夏、秋と収穫しています。楽しいですよ。一年目に、お米が四百キロあまり収穫できましてね。私一人が一年間食べても五キロくらいですから「さあ、どうしようか?」と考え込んでしまいました。そこで全国を公演して回ってお世話になった人たちに少しずつでも送りましょうと。 でも、ただ送ったんでは「岩室のコシヒカリ」としてしか分かってもらえない。じゃあ「ネーミングしよう」って農家の人たちに相談したら「日色米」という案が出たんですが、私の案「ともゑ米」に決まりました。 「千社札」のシールを作っているところを紹介してくれる方がいて、五キロとか二キロに小分けしたお米の袋に「私の田んぼで穫れたお米です」と書き、真ん中に千社札を貼って全国へ発送しました。そしたら大人気になりまして(笑い)。
きっかけは“ギャラ”の代わりもともと岩室温泉には十数年前から、仕事が終わった時に二〜三日骨休めに行っていたんです。その宿で朗読劇『この子たちの夏』の話が出て、「うちの村でも公演したいので主催者の地人会に橋渡ししてほしい」と頼まれましてね。敗戦五十周年のイベントで、新潟県内十三カ所で公演した時、岩室村では近郷近在から九百人もの人たちが集まって、大成功でした。その時、農家の人たちから「村の子どもたちに物語などを聞かせる機会をつくってほしい」と頼まれたんです。「でも、お金がなくて…」と言いますので、「心配いりませんよ。温泉には時どき来ているんだから」と話しましたら、下を向いていて「あのう田んぼでどうでしょうかね」と言うんです。私は、その意味が分からないまま帰京しました。 年が明けて四月頃、岩室村の人から電話がかかってきて「日色さん、田んぼの田植えの用意ができました。五月の六日に来て下さい」と言うの。ビックリしちゃって。その時「つまり、こういうことだったんだ」と初めて分かって…(笑い)。
「日色ともゑ農業教室」の看板を立て私が驚いたのは、農村の子なのに田んぼに入ったことがないとか、「農業をしなくてもいいという条件でお嫁に来た」という奥さんもいるんですね(笑い)。それで、いざ稲刈りとなった時、「日色ともゑ農業教室」という大きな看板を立てて「今日は皆で稲刈りをしましょう。労働しなければ朗読を聞けませんよ」と宣伝したんです。そうしたら若いお母さんや子どもたちが田んぼに入って、刈り取った稲を束ねてハザ掛けまで手伝ってくれました。最近はハザ掛けなんてしたことないから、近所のお年寄りが皆さん出てきて、やり方を一つひとつ教えてくれました。 息子さんたちが「ばあちゃん、ばあちゃん」と言っているんで、お年を聞いたら、私と大して年が違わないんですよ(笑い)。その方たちが、私の畑の野菜作りで知恵と経験を生かしてくれていますが、皆さん若々しく綺麗になったんです。
ショックを受けた朗読劇『この子たちの夏』にたずさわったのは一九八八年、宇野重吉先生が亡くなられた年でした。その三年前から地人会の方たちが公演されていて、初演の時は民藝の水原英子さんが出演しましたので観に行きました。そうしたら、打ちのめされるくらいのショックを受けたんです。内容は広島、長崎のまったく無名の人たちが書いた手記を、六人の女優さんが入れ代わり立ち代わり、ただ読むだけ。照明と音とシンプルな空色の舞台で、あの時代に生き抜けなかった子どもたちの「生きよう、生き抜こう」という気持ちがグングン伝わってくるんです。 私自身も、父の判断が誤っていたら三月十日の東京大空襲で死んでいたと思うんです。家が日本橋蛎殻町だったんで、全焼しました。昭和十九年に田舎へ疎開していたので、助かりました。まだ三歳か四歳の時でした。でも母方の祖母や叔母は家が本所でしたので猛火に追われ、隅田川に飛び込んで死にました。叔母は七カ月の身重だったそうです。叔母の夫は戦地で死んでいます。
『その人を知らず』の舞台に四月十二日から二十六日まで、新宿の紀伊国屋サザンシアターで『その人を知らず』の舞台に出ます。三好十郎生誕百年記念公演で、多くの新人が出演して素晴らしい舞台になると思います。戦時中に徴兵を拒否したクリスチャンの青年が主人公で、私は恋人の役です。「なんじ殺すなかれ」という聖書の教えを守っために、憲兵隊から警察へとたらい回しのあげく拷問で片腕をへし折られます。洗礼をさずけた牧師はペテロのように「われ、その人を知らず」と否認し裏切ります。 「国賊」を出した家は周囲の冷たい仕打ちに合って崩壊し、敗戦後は一転して「英雄」扱いされますが、彼の叫びは届きません。 あの当時、戦争に反対したために監獄に入れられた人たちのことは、戦後になってから知りましたが、この芝居も実在した人をモデルにしているんです。三好さんは、戦争に協力した人たちの責任はもちろん、戦争に反対しなかった自分たちも含めて、戦争責任を取らなければならないと思われたんでしょうね。とってもいい戯曲です。 いま同時多発テロからアメリカの報復攻撃、イスラエルのパレスチナ侵攻などの状況を見ていますと、「戦争をしてはいけないんだ」という主人公の気持ちが痛いほど伝わってきます。有事法制や憲法改悪の動きなどを見ていますと、危険な匂いがしてきます。戦争はいやです。二度と、あの過ちを繰り返してはなりません。 (聞き手)角張英吉
(新聞「農民」2002.4.29・5.6付)
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[2002年5月]
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