農の考古学(5)稲作の歴史をたどる
縄文時代に焼畑はあったか縄文時代のイネ栽培は焼畑農耕だったとする論は農学者や考古学者の間で、半ば「定説」化した観があります。こうした論に対し、「畑の考古学」の研究者として知られる、群馬県埋蔵文化財調査事業団・調査研究部長の能登健氏は「縄文時代に農耕があったとしても、それが現在の民俗事例にみられる焼畑農耕だったという根拠はない」といいます。 能登氏は、焼畑耕作地域における遺跡の分布と遺跡の継続状況を知るため、数年間にわたり精力的な調査を行いました。その結果、関東甲信越地域で焼畑耕作が残っているか、かつて存在した地域では、縄文時代の遺跡の分布はあっても、弥生時代から古墳時代には遺跡の継続がみられないことがわかりました。 「農業社会が成立した弥生時代以降、人間の生活は山から平地へ移行します。それで山での生活の継続がないのです。さらに群馬県では火山灰に埋まっていた四・六・十二世紀代の畠作耕地が検出されていますが、これらはいずれも定畑で焼畑ではありません。これらのことから焼畑農耕の歴史は八、九世紀の平安時代をさかのぼるとは考えられません」といいます。 能登氏は、藤森栄一氏の縄文中期農耕論が、山梨県・奈良田や長野、新潟県にまたがる秋山郷の焼畑農耕事例に触発されたものだったこと、縄文農耕は焼畑農耕だった、とする論が、「焼畑はより原始的」とした民俗学の見解と、焼畑の民俗的事例を援用したもので、考古学での証明はされていないと指摘します。 「私は素朴な疑問をもつのが好きなのです。先入観をいかに払しょくするかが考古学では大事です」という能登氏。 ドイツの考古学者、ヤーコブ・フリーゼンも、学問を前進させる基礎は信じることではなく、疑うことだといっています。素朴な疑問が考古学を進展させるのだと思いました。 (隔週掲載)
(新聞「農民」2002.4.8付)
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[2002年4月]
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