農の考古学(4)稲作の歴史をたどる
縄文農耕論は証明されたか縄文時代に何らかの農耕があったのではないか、という縄文農耕論は以前からありました。藤森栄一氏が提起した中部高地の縄文中期農耕論は有名です。藤森氏は、縄文中期における中部高地一帯の集落の発達要因として農耕の存在を考え、同時期の中部高地には石鏃が少なく、石皿や土掘り用とみられる打製石斧が多いことなどから、単なる狩猟採取の文化とは考えにくいとしたのです。藤森氏は、縄文中期農耕論の証明には解決すべき課題が残されているとし、栽培植物の確認、原始焼畑農耕の研究の必要などをあげ、「後出の資料を待ちたい」としました。 その後、縄文遺跡からは栽培植物やイネの遺物の出土・検出が続きました。しかし、これらの資料で縄文の稲作農耕が存在したといえるのでしょうか。 高校時代に藤森氏から考古学を学んだ戸沢充則氏(明治大学前学長)は、イネ遺物の出土・検出をもって縄文稲作=縄文農耕の証明とする見解には批判的です。 戸沢氏は「縄文のイネの資料は増えているが、縄文時代に稲作があったとの証明はされていない。栽培植物についても、長く続いた縄文社会の生産や経済基盤を変革させるようなものとはなり得なかった。縄文の栽培植物の問題と弥生時代の稲作農耕とは質的な違いがある」といいます。 日本考古学は前期旧石器ねつ造問題で、その調査・研究のあり方が問われています。戸沢氏は日本考古学協会の「前・中期旧石器問題調査研究特別委員会」の委員長として、ねつ造問題の解明にあたっていますが、その教訓を踏まえて縄文時代に稲作農耕があったとする論には慎重なのです。 「縄文農耕の歴史的位置づけを見定めた、地道で慎重な調査・研究が求められる」という戸沢氏の言葉は、センセーショナルな考古学への戒めといえます。 (つづく)
(新聞「農民」2002.3.25付)
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[2002年3月]
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