農の考古学(2)稲作の歴史をたどる
縄文のイネと焼畑熱帯ジャポニカは野生に近いイネで、水が少なくても育ちます。水田でも畑でも作れますが、肥料を与えるなど栽培環境をよくしても温帯ジャポニカのように収量は上がりません。畑作向きのイネといえます。この熱帯ジャポニカのプラント・オパール(植物珪酸体)が検出された縄文晩期の遺跡があります。 宮崎大学の藤原宏志教授(同大学長)は一九九〇年、宮崎県えびの市にある桑田遺跡(縄文時代晩期)の土壌分析でイネのプラント・オパールを検出しましたが、その形状解析で熱帯ジャポニカである可能性が高いことが分かりました。桑田遺跡は丘陵上にあります。 藤原学長は「遺跡の立地やプラント・オパール分析のデータからみて、この地で畑稲作が行われていたことは十分、考えられる」といいます。 畑稲作の痕跡は同県都城市の黒土遺跡でも見つかっています。同遺跡の縄文時代晩期の遺物を包含する第V層からは、イネ籾痕のある土器や、胎土にイネ籾が混入した土器が出土しましたが、この層からはキビ族のプラント・オパールも検出されました。黒土遺跡が立地するのは丘陵上の傾斜地で、今も畑地です。 藤原学長は焼畑でイネとともに、キビ類の雑穀が栽培されていた可能性を指摘します。そして焼畑が森林破壊の農法ではなく、作付休閑期間を設け、その間に森林を再生させるという自然生態系を巧みに利用した合理的農法だと説明します。 「縄文時代の焼畑農耕は自然に順応したもので、縄文人は森林と共存する思想を持っていた。これに対して弥生時代の水田稲作は自然を改造した上に成り立っており、自然の克服、改造という思想だった。たしかに水田稲作があったから米が日本人の主食になったが、自然との共生という今日的な課題から、私たちは縄文人の思想に学ぶところがあるのではないだろうか」。私たちへの藤原学長の問いかけです。 (つづく)
(新聞「農民」2002.3.11付)
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[2002年3月]
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