〜手記〜 27年間の裁判闘争をたたかって2001年12月20日 全税関委員長 上山興士
国に抗し“人間の尊厳”守り抜いた十二月十三日、最高裁第一法廷は、「税関賃金差別裁判」東京事案で、横浜事案に続き、「組合差別があった」「二百五十万円の損害賠償を払え」との画期的な判決を下しました。裁判を起こしてから二十七年六カ月。この間のさまざまな思いを綴らせていただきます。
来る日も来る日も当局の組合攻撃が続き、第二組合が作られ、仲間が一人また一人と組合を脱退させられていきました。 私も課長に呼ばれ、「旧労(全税関)にいたら出世できない」「組合は日本共産党に牛耳られている」と脱退を強要されました。 でも、私はどうしても納得出来ませんでした。もし、新労(第二組合)が正しいのなら、なぜ「バスに乗り遅れるな」と脅して連れていくのか。単純な私でも少しづつ事の本質が分かってきました。 いま振り返れば、青春の選択を誤らずに、良心を守り抜いたことを何よりも嬉しく思っています。 第一組合に残ったため、三十八年間のほとんどが差別的取り扱いの連続であり、それとのたたかいでした。 同期同資格で入った同僚と年間百数十万円の賃金差別をされ、十年も後輩の課長の下で働かされる屈辱を味わされてきました。 同期の組合員が、「家の一軒も立つような差別だな」と自嘲ぎみに言っていたのが忘れられません。 許せなかったのは冠婚葬祭の差別です。七〇年に父が亡くなり、葬儀を終えて出勤すると第二組合の分会長が私に、「今度から職場での香典は集めないことになった」と言ってきました。「死んだ父まで差別するとは何ごとか」と激しい怒りが込み上げ、「屈辱はきっと晴らす」と誓ったことを思い出します。 七四年に結婚したときも挨拶を予定していた課長が突然欠席するといってきました。私は、当時の全税関委員長・石黒昌孝氏(現農民連事務局次長)に依頼し、事なきを得たことも覚えています。原告はすべてこのような差別に苦しめられてきたのです。 私たちが止むに止まれず裁判を起こした七四年六月十一日、東京は篠つく雨が降り続いていました。国家公務員が国に対して起こしたマンモス裁判と、マスコミも大きく報道しました。 十二月十三日、最高裁の判決の日も師走の冷たい雨が降っていました。提訴の日は怒りの雨、悲しみの雨でしたが、最高裁勝利の日はうれしい雨、喜びの雨に変わり、勝利判決を見ずに他界した全国二十八名の仲間の気持ちが乗り移った気がしました。 二十七年間の裁判闘争は平坦ではありませんでした。当局は、当初から「分裂や第二組合結成への関与は全くなく、昇任・昇格等で組合所属を理由として差別したことは一切ない」と主張してきたのです。 全税関は、当局の言いがかりや引き延ばしに屈せず、分裂や差別の実態を克明に立証し、関税局・東京税関のマル秘文書などを証拠として提出、当局を追い詰めてきました。 その結果、最高裁は判決のなかで、(1)原告組合員は集団的に見て非組合員と格差がある、(2)会議文書から関税局・東京税関当局は組合を嫌悪し、差別する意思を有していた、(3)東京税関は、組合分裂を助長、支援したと、全税関への支配・介入を認め、団結権侵害を断罪したのです。 二十七年をかけて人間の尊厳と労働者の団結権を守り抜いたことは日本の民主主義にとっても重要なことだと思っています。 物心両面にわたる農民連の皆さんのご支援に深く感謝するともに、私たちは今後も日本の農業と国民の食糧・健康を守るために全力をあげる決意です。
(新聞「農民」2002.1.21・28付)
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[2002年1月]
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