「農民」記事データベース20020107-522-05

新春対談

農山村は豊かな日本の源

――守ろう国民の力で――


群馬県上野村・村長 黒澤丈夫さん

1913年群馬県上野村生まれ 1954年上野村農協組合長 1965年村長に就任 1971年全国山村振興連盟副会長 1986年財団法人「慰霊の園」理事長 1987年全国町村会常任理事 93年全国町村会副会長 95年〜99年全国町村会長

農民連会長 佐々木健三さん

1941年福島県福島市生まれ 1964年〜69年福島県青年会会長 96年〜98年福島市農業委員 98年福島県農民連会長 2000年農民連常任委員・畜産農民全国協議会会長 2001年農民連会長 福島市で三十頭を飼育する酪農家


 農林業の軽視は日本をダメにする

 佐々木 大変貴重な時間をとっていただき、ありがとうございます。

 全国町村会が提言「21世紀の日本にとって、農山村が、なぜ大切なのか――揺るぎない国民的合意にむけて」を出されましたが、この内容に私たちは非常に感銘しました。中身が私たちがめざしている運動とそっくりなものです。この提言を読みまして、ぜひ黒澤村長さんに話を伺いたいと思い、お伺いしたわけです。

 まず、提言の中身についてお話し願いたいと思います。

 黒澤 細かい中身は別として、いま農業・林業を軽視して貿易で金を稼ぐ経済界だけの声に動かされてしまったら、日本はえらいことになる。あと十年たったら、畑の多くは荒れ地になりますよ。

 佐々木 そうですね。

 黒澤 実際、田んぼを誰が耕すのか。いまはじいさん、ばあさんだけでしょ。十年たったら、どんどん死んでいってしまう。誰が手を入れるのか。金さえあれば何でも買えるだろうか。絶対に買えない。札びらを食って生きるわけにはいかないでしょう。

 佐々木 自給率は四〇%を割る大変な事態です。

 黒澤 昨年から農水省は荒れた農地への直接支払い制度をはじめた。これをやっても実際に荒れ地を耕して、食っていけるか。集落としてやれといっても私のところは本気になってくれない。林野庁が来年度予算で林地への直接支払いを始める。三百億円ほど予算要求し一ヘクタール一万円ほどだ。こんなことで荒らした山が甦るか。ここまで荒らすと、しばらく金がかかりますよ。

 佐々木 いったん荒らした山や農地を元に戻すのは大変ですね。政府の経済財政諮問会議に参加している学者が「しいたけが作られているのは外国だが、技術や資本は日本だから、外国のものでも日本の農業のものといっていいのではないか」とこんなバカなことをいっている。

 また、今の農政は「構造改革」といって、一ヘクタール以下の農業は「ガーデニング」、庭いじりのようなものだといっている。よくもこんなことまでいうもんだとあきれてしまう。

 黒澤 そういう人は食わないでいたほうがいい。金で買えるのは、よその国が貧しく金がほしいから。中国をみればよくわかると思う。人口はものすごい勢いで増えているでしょう。そういうことを経済界や学者はわかっているのだろうか。いまの状況だけを見て、農業・林業だけを考える。それで国家を動かすなんていうのは、まことに上っつらの議論ですよ。

 佐々木 提言で言われていることですね。

 黒澤 われわれはしょっちゅう言っている。何千年の歴史のある農業を育ててきた先祖からの苦労が、まるでバカな先達によってご破算にされる。

 過疎化を食い止める創意と工夫

 黒澤 われわれの村は昭和三十年代の半ばごろ、どんどん人が村外に出て行き、過疎化がはじまった。そういうなかで、昭和四十年に村長になり、若者を村に引きとめようと、当時はまだ魅力ある農業・林業を起こせると思った。国も県もそういう指導をした。

 農林業では、村に若者を引きとめえない、過疎対策としては農林業だけを振興してもダメだ。二次産業、三次産業をまんべんなくやって、その中で農産物を使ってもらう、加工しようという方向でやってきた。それでも過疎は止まらなかった。

 人口動態を見ると、村長になった時と今を比べると、だいたい二分の一。ところが、それを見ていただけでは、本当の過疎の怖さを判断できない。人口が減っているなかで、増えている部分がある。

 佐々木 高齢者ですか。

 黒澤 六十五歳以上が増えている。その反面、若手の子どもを産む年代は減っている。もっと極端なのは学校の生徒。私のところは六分の一くらいになっている。さらに深刻なのは、生まれる赤ちゃん。これは少子化の影響がある。

 二千人の人口が安定的にこの村に定住することを目標にした場合、毎年赤ちゃんが二十五人生まれて、平均寿命八十歳として、二十五人が全部村に残ってもらう必要がある。それでは二十五人生まれているかというと、ゼロ歳児から四歳児の間は九・三人。これでも近隣の町村の倍です。

 佐々木 「広報うえの」を見ると、「21世紀の担い手」の連載が二十八回も続いていますね。つまり二十八人が登場したんですね。しかも「一歳になりました」と赤ちゃんも紹介されています。

 村長さんは若者を育てる面に相当力をいれていることがよくわかりました。

 黒澤 就業の場を作らないかぎり、定住したいと思ってもできない。農業と林業で食えるようにしてやるためには、みなさんがやっている運動と歩調を合わせて、国費による施策をやるべきだ。都会にいる人もふくめて、みんなで負担すべきだ。

 佐々木 政府も中山間地の所得補償を少しやりはじめていますが、とても実態を反映していない。

 黒澤 国土の大部分を守るのは農林漁民ですよ。一番金がかかるのが農地かもしれない。荒らさないようにするためには耕さなければならないから。

 地元の木を活用し木工業を振興する

 黒澤 村に産業を興そうと、五十人ほど働く弱電機の工場を誘致した。ところが、ひとたびその業界に不況の風が吹くと、一番先に操業短縮、門を閉める。その対象にされるのが中山間地域の工場。こんなものを頼りにしていたのでは、定住者の働く場所にはならない。いやおうなしに悟らされた。わが村にある原料、われわれの資本でわれわれが経営する必要がある。この村にいくらでもあるのは何か、木だ。それで木工業を始める気になった。

 そんなことをあちこちで話していたら、高崎営林署長の紹介で神奈川県の小田原木工業組合のある社長から「木工業の技術屋を養成するなら、俺のところで預かってもいい」と言われた。具体的な木工業の振興を考え、その先達となる人物を養成しようと、若者を地方公務員として採用し小田原に昭和四十九年から二年間派遣し、徒弟教育を受けさせた。

 佐々木 役場の職員に採用して二年間、修業させたのですか、すごいことをやったんですね。

 黒澤 ロクロのなんたるかを私も勉強し、お盆を作ったり、茶卓を作ったり、茶筒を作ったりした。二年たったら帰ってくるので、それにあわせるように工場作りをはじめた。

 佐々木 いまでも木工場としてあるのですか。

 黒澤 産業なんだから、いつまでも税金で面倒を見るわけにはいかない。独立させた。製材から塗る、磨く作業など四十人ほどの就業の場となっている。二億円ほどの産業になり、挽き物、家具建具、玩具の三部門に分かれて生産活動が行われている。森林組合にいまは任せている。

 村を守るためには、上野村の住民が、農民も林業民も漁民も商工会も「上野村一家」でやらないとダメだ。農協の合併も村の合併も絶対にしない。小さいけれども力を結集して、団結力の強い村つくりをする。

 佐々木 村長さんは市町村合併反対の先頭に立っておられますね。

 黒澤 農林漁民をないがしろにして、農協や森林組合はどうでもいいという連中が、食っていけなくなるときがくる。絶対に農林漁業を守らないといけない。生産の場を守らなければならない。工場だけで食い物ができる時代はちょっとやそこらではきませんや。私はそう思う。

 佐々木 私たちも運動のなかで、農山村の復権をめざそうと取り組んでいます。

 黒澤 絶対にやってもらいたい。

 定住できる就業の場作りに努力

 佐々木 先ほど「十石みそ」を作る大きな工場を見てきました。

 黒澤 所得を確保する場で、農産物の加工で十人くらい働いている。最初は掘建て小屋から始めた。味噌を作るといっても水道の消毒した水では、麹菌の繁殖が阻止されてしまう。

 佐々木 殺菌剤ですからね。

 黒澤 そう。そこで涌き水でやった。大きな樽でやったが、真ん中のほうは、麹菌の発酵が悪い。あれをひっくり返すのは大変な騒ぎだった。いろんなことを教わりながら、今日まできた。

 もっともとっぴなことは「猪豚」の肉を売ろうと取り組んだこと。上野村には畑が少ないが、山がある。この山を活用して、生産性の高い畜産業を振興できないか、スイスでは標高が高いが山の牧場で酪農が発達していると聞いた。肉牛を放牧したら成功できるだろうと考えた。牧場の用地を借りに東京の所有者に行ったら断られた。なんで貸してもらえないかと聞くと、「豚と猪の合いの子を放して狩猟させ、観光客を招待する」と言われた。この話からヒントを得た。農家に飼育してもらい、村の名物として肉を売り出すことにした。

 佐々木 村営でやっているのですか。

 黒澤 初めは農協でやったが、月給とりではダメだ。生まれる時は夜中であろうが、出産する。豚よりも飼育日数が長く、生まれる頭数も少ないから、一頭でも死なすわけにはいかない。いろいろと苦労した結果、昭和四十六年秋から「猪豚」が軌道にのった。「猪豚」の肉はうまいですよ。

 ともに力を合わせ農山村を守ろう

 佐々木 日航機墜落事故で亡くなられた人たちの「慰霊の園」に行きましたが、村長さんや村民の苦労は大変でしたね。

 黒澤 相模湾で日航機が故障し、御巣鷹の尾根に墜落したのが三十分後。死を覚悟しなければならない恐れと悩みを思いやると涙なきをえない。そういう気持ちがあるから心の底から霊を慰めてやろう、祭ってやろうと村民のみなさんとともに一生懸命にやっているわけです。

 佐々木 村長さんのお話を聞いて大変、勇気づけられました。私たち農民連や消費者・国民など三百三十万人が入っている食健連という組織があります。多くは都市の住民です。こういう人たちと農業や農山村の価値を確認し合い、合意を広げる運動を進めています。この提言をもとにして話し合いをしながら、やっていこうと思っています。農業と農山村を守らなければ日本は守れません。

 黒澤 みなさんが、いまこそ立ち上がれと、センセーショナルなスローガンを掲げてもらいたい。町村会はそういう組織ではありませんから。私も腹の底からみなさんと同じ考え方だとわかってもらいたい。

 佐々木 私たちは政治に働きかける力を強くし、なんとしても農業・農村を守って行きたいと思います。全力をあげてやります。

 黒澤 やりましょう。


 群馬県上野村

 上野村の人の歴史は古く、村の中央を流れる神流川の周辺からは縄文土器や石器類の出土が見られます。

 群馬県の最西南端に位置し、東西十六キロ、南北十五キロの面積で、標高千メートル〜二千メートル級の山々に囲まれ、九割以上が山林を占めている山村です。人口は約千七百人。

 特産となった「猪豚」をはじめ、味噌加工、地元の広葉樹材を活用した木工芸品など、農林業と商工業の連携を図り、原材料の調達から加工・販売まで一括した総合的な産業振興を推進。観光産業とも連動させ、農林業を村の基幹産業として成り立たせており、全就業人口の二〇%近くを占めています。

 上野村楢原地区には、一九八五(昭和六十)年八月十二日午後六時五十六分、日航機墜落事故で犠牲者になられた方々のご遺骨を納めた「慰霊の園」があります。

(新聞「農民」2002.1.7付)
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2002年1月

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