雪原を力強く走る木曽馬
2002年《午(うま)》幕明け 農業守る声ひびかせよう
木 曽 馬
文 小林 節夫 撮影 冨沢 清
木曽には木曽馬が一番
木曽馬は千年も前からきびしい自然環境の中で育ってきた。蒙古系という説があり、事実、双方の染色体数は六六で同じだという。粗食で強健な馬である。
体高百三十三センチ、胴の長さ百五十センチという胴長短足。固い蹄は蹄鉄が不要なほど丈夫で、「側対歩」という、一方の側の前後の脚を同時に出し、次に反対側の前後の脚を同時に出す独特の歩行ができる。この歩行は前後左右の揺れが少ないので荷を積んで急な山道を歩くのに適している。
後ろ脚はX状で踏ん張りが効くので険しい道を兎のようにピョコンと駆け上がり、急坂をズルズルと下りることもできる。だから競走馬に比べれば見栄えは悪いかも知れないが、木曽では木曽馬が最も適していたのである。
木曽馬は優しくおとなしい
草を食む木曽馬のまつげの長い眼は大きく澄んで、この上なく優しい。標高千メートルを軽く越す長野県木曽郡開田村の「木曽馬の里」所長伊藤皖司さん(58)が開口一番力説されたことは――
馬はどの家も一番日当たりの良い南側のところを住まいにし、台所は馬の鼻先にあり、囲炉裏を囲む一家団欒の様子が丸見えの造りの馬屋(まや)で家族とともにあり、お嫁さんによって優しく育てられた。
それだけに木曽馬はみんなおとなしく、幼児が手綱をとっても曳かれて歩き、子どもが乗っても落とすようなことはしないし、一本手綱で乗れる。育てた人や一度通った道を忘れず、手綱を放しても家に帰って来る。
戦争で絶滅の危機
明治三十七〜八(一九〇四〜〇五)年の日露戦争で、ロシアのコサック騎兵に悩まされた日本は、戦争が終わると翌三十九年には長野県平賀村・三井村(現佐久市)に種馬所を設けて馬の大型化「改良」に乗り出した。木曽、特に北部地域の農民はアングロアラブなど大型外国馬による「改良」を頑強に拒んできたが、中国への侵略戦争が泥沼化した昭和十四(一九三九)年、軍用馬を作るために種馬統制法と軍馬資源法が公布された。
その第三条では、種牡馬はすべて国有にする。第四条では、政府は種牡馬検査で、体高百五十六センチ未満のものは種牡馬と認めない(したがって木曽馬は不合格)。第八条では、種牡馬でなければ種付けしてはならない。
こうして昭和十八(一九四三)年、宝玉号を最後に木曽馬の牡はすべて去勢された。
――その日、王滝村の松木家の六十歳のお婆さんは、二十キロメートルの道を、川を渡り険しい山道を越えて栗毛の愛馬松緑号を曳いて木曾福島町の去勢場へ着いた。
お婆さんは「人が大事に可愛がっている馬を去勢するなんてそんなこといったい誰が決めたんだ」と国や県の役人に向かってカンカンに怒った。係官は説明したが「わたしに関係ないこと、知ったことではない」…
「さあ、栗よ、達者で暮らせよなあ。おらあこれで帰るでなあ」、お婆さんの眼には涙が光っていた。お婆さんが去って行くと松緑号は悲しげにいなないた。(伊藤正起著『木曽馬とともに』)。
種馬の去勢だけでなく、大規模な軍馬徴発があった。昭和十二年八月には、開田村だけでも二百頭、木曽全域で八百頭が徴発され、海を越えて行った木曽馬は二度と祖国の土を踏むことはなかった。
このように国や軍の命令はきわめて峻厳な時代だったが、関係者は神明号という牡馬を守るために「病弱」という理由をつけて去勢猶予願を提出し、去勢を免除された。その馬を今度は更埴市八幡にある武水別神社の神馬(しんめ)として奉納してしまった。さすがの軍部も神馬には手をつけることができず、徴発も去勢も免れたのだった。
新世紀の木曽馬
戦争が終わって神明号は木曽に帰り、新開村(現木曽福島町)、開田村、三岳村で種馬として、種牡馬の第三春山号など、木曽馬の血を残した。
こうして木曽馬はよみがえったが、一九六〇年代からの高度経済成長政策のなかで農作業は馬から耕運機に変えられて激減し、再び絶滅の危機に瀕した。
いま開田村では、年間二千万円近い予算を組んで三十数頭の飼育に助成、木曽馬の復活に取り組んでいる。
午(うま)年の年頭に当たり、二十一世紀を二度と戦争のない世界にと、心から祈りたい。
(新聞「農民」2002.1.7付)
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