出来秋の豊作を願って守り神(秋田)と祭り(千葉)
“農業つぶし許さんぞ”農民の思い語る「鹿嶋様」秋田県・雄物川町秋田県雄物川(おものがわ)町下開集落の入口に立っている大ワラ人形――名は「鹿嶋(かしま)様」といいます。山形県境に源を発し、大曲を抜けて、秋田市で日本海にそそぐ雄物川は、明治の中頃までは物資輸送の大動脈でした。しかしこの川は、毎年のように氾濫を繰り返し、流域の住民に水害や伝染病などの脅威をもたらしてきました。 先人たちは、この雄物川の脅威に対して、自己の力の限界を知り、他の大きい力に救いを求めたのでしょう。信仰が芽生え、天を仰いで神に祈り、地を愛して、餅などをついて神に供え、酒を酌み交わして互いの労をねぎらいながら、無病息災、豊作を祈願しました。 この「鹿嶋様」を祭った「疫神おくり」の行事は、毎年七月十六日に行われます。この日は、人形道祖神の鹿嶋様と家ごとに作られた鹿嶋人形を乗せた屋形船が、笛、太鼓、鉦、鼓などの鳴物・拍子に合わせて各家々をねり歩きます。一巡すると、鹿嶋人形は流し舟に乗せて雄物川に放たれ、鹿嶋様はここにすえられます。現在、雄物川町内の二十六カ所で、この鹿嶋行事が行われているそうです。 たくましい体駆に太い眉と鼻、つり上がった目の鹿嶋様が「農業破壊、許すまじ」と言っているようで、思わずシャッターを切りました。 (秋田農民連 佐藤長右衛門)
義民 佐倉宗吾の志継いで元気な農業と祭り守りたい千葉県・成田市台方義民として全国的に知られる「佐倉宗吾様」――本名は、木内惣五郎。凶作と過酷な重税に苦しむ領民を救うため、惣五郎は死を覚悟し、家族に罰がおよばないように離縁したうえで、徳川四代将軍家綱に直訴。領民の窮状を救うことはできましたが、直訴の罪は重く、四人の子どもとともに処刑されました。時に、承応二(一九六三)年八月三日、四十二歳でした。この義民惣五郎のふるさと成田市台方(下総国印旛郡公津村台方)の産土様、摩賀多神社の祭礼が毎年七月三十一日、地元の若衆の手で受け継がれています。 成田市台方は印旛沼のほとりの水田地帯。田んぼには、すでに穂を垂れかけた稲が育っています。 豊作と安全を願う祭り。高台にある神社から、神主さん、巫女さん、神輿、…一番最後には、集落の若者や子どもが引く山車が続き、惣五郎が通った直訴道――宗吾街道(国道四六四号線)を通って、沼のほとりにある一の鳥居(御走り)まで下ります。神興が御走りに納められると、獅子舞が奉納されます。昔は、沼の中に神興を担ぎこむ「お浜降り」も行われていました。 この獅子舞は、若衆にとって一人前として認めてもらう登竜門。長男や婿さん、つまり跡取の男性でなければ踊れません。踊り手は、一カ月間、毎晩、集会所に通い、修行を積みます。 山車には獅子の面をかぶった人形が乗り、下座(お囃子)が笛・太鼓ではやし、引き手と一体となって進みます。私もかつて獅子舞を踊り、いまは毎年、山車の上で笛を吹いています。 最近では、百五十人もいた若衆が五十人ほどになり、祭りの維持・運営に苦労することもあります。村に若者がいなくなったのではなく、「仕事が忙しくて、祭りのために三日も休めない」というのです。 やっぱり元気な農業があっての祭り。現在、この義民の村に農民連の会員は六人。惣五郎の志を継いで、大きな農民連を作り、元気な農業と祭りを守っていきたい。
(千葉県連 小倉毅)
(新聞「農民」2001.8.13付)
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[2001年8月]
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